きみのためにたとえ世界を失うことがあろうとも、世界のためにきみを失いたくはない――バイロン


 ――さあて、ここはどこなんだ?
 引っ越してから初めて歩きつめたこの町。たしか名前は月宮町だったか。
 千切った綿菓子を散り散りにばら撒いたような雲たちの一端がオレンジ色に染められていた時はもう過ぎて、目覚めると黒と灰色が散りばめられた夜の空と変貌していた。
 そう、寝ていた。自分でも言ってて良くわからないのだけど、廃神社で眠っていて、ふと目が覚めたら夜にさしかかろうとしている時間になっていた。もちろん眠ろうとしていたわけではなく、意識がいつの間にか沼の底に沈んでいた。そして今は何で寝てしまったのかを考える余裕はなく、ただ家路を辿るのに躍起になっている。芽生えた感情は中途半端な焦り、やり場のない憤りが足を突き動かす。
 ――道、さっぱりわからないからなぁ……。
 薄暗くて小高い丘の、申し訳程度に舗装された暗い道を歩く。地面にはヒビと呼ぶには大きすぎる亀裂が数メートル先まで伸びていた。頭上に光るのは砂中で日光に反射する雲母のような星。小山程度だけど高さを利用して遠景を眺望できると踏んだのだが、鬱蒼と茂る木々が遮蔽物となってほとんど見えずじまい。夜にすっかり慣れてしまった目だけが頼りとなる。
 ふと夜道に出てくる妖怪のことを思い出した。アレはなんと呼ぶのだろう。たしか子供を連れ去るものだったはず。
 ――っていうか、そんな悠長なこと考えていれる状況でもねーな。足を踏み外せば……生きてられるか?
 底の見えない下方を覗こうと身を少し乗り出して、すぐに止めた。暗闇は、光あれと生を受けた人をあっち側へと引き込んでいくような気がする。それはこの見えない底に限った話ではない。人は無意識のうちに暗い何かに飲み込まれる。人がその事実に気づいたとしても、自力で抜け出すのは容易ではなくなっている。
 聡い人でだったら引き込まれる前に気付いて何らかの対処を施せるのかもしれないけど。
 距離感がわかるのは足元から数歩先だけだ。漆黒に毛が生えた程度の緑が正面にあるが、そこまでの隔たりはわからず、ただ平面の黒いシルエットが広がるだけ。まるで巨大な真っ黒の厚紙を木々の形に切り取ったかのような。
 一瞬下るのをためらうほどの急勾配を下り終える。
 ――よっしゃ、なんとか市街地が見えてきた……!
 左右には稠密された田畑が広がっていて終わりが見えず、さっきの見えない底を彷彿とさせた。視界を遮る建造物は田畑の奥にある。常夜灯の光がコンクリートの細い車道を反射して、さっきの小山よりは大分周囲の見晴らしが良い。
 世界中に一人きりになったみたいだ。人の気配がまるでしない。上方を向く。この満天の夜空を独り占めにした気分になった。心臓の奥から神経の末端まで夜と一体になって溶けたような浮遊感が全身に染み渡る。星辰。その光はいつ発され、いつここまで届き、いつここに染み渡るのだろう。そしてどこへ消え行くのだろう。
 ――そんなことより、なんとかして家に帰らないと。
 すぐ我に返り、正面を向く。左手には無機質な住宅街。右手にも同じように住宅街が一列に並んでいるが、道路の先を注意深く見ると光が左右に動いているのが見えた。車の光った目が通過したものかもしれない。今が十時くらいだったら店の場所をわかりやすく示すための看板が輝いて高々と建てられているのだけど、今は真夜中なのでどこも営業しておらず、どこに建てられているのかもあまりわからない。……と思ったらコンビニだけは営業しているみたいだ。
 建物の輪郭が影絵のように浮かび上がって、左右見比べた。こちらのほうが活気盛んな印象を受ける。
 ――右に行くか。大通りにでればさすがに自分がどこにいるかわかるだろ。
 道なりに沿って進んでいく。腹が減りすぎで胃袋の粘膜が胃液にやられて、火傷跡のように痛む。波が押し寄せるような周期で頭痛やふくらはぎの浮腫みの感覚がやってくる。それらを無視して歩き続けた。今足を止めてしまったら、もうそこから一歩も踏み出せない気がしたから。
 ――おおー……やっと二車線の道路に突き当たったな。コンビニ、本屋、洋菓子屋、眼科……あの理容室はみたことあるぞ。ああ、やっと家に帰るための路標が立ったっ!
 ちょっと感動。胸の奥底がじわりと熱くなる。
 ここまでくると改めて世界に自分以外の人がいるんだなと認識させられた。時間帯が夜遅いので交通量はほとんどないけど、人々が少しだけ活動しているのが見える。
 ふと視界に一人の少女が入った。見た瞬間、脊髄から足の先まで衝撃が胸中に巡る。
 俺の中のこころ、胸中深くえぐる誰かが、彼女のことを忘れないように刻み込ませている。これがいわゆる刷り込みだというものだと言うのなら、それを容易く信じてしまうだろう。
 少女の背丈とほとんどかわらない亜麻色の長い後ろ髪。直毛ではなく少し癖のある髪。辛うじて地面を擦らずに済んでいるけど、顔を上に向ければその後ろ髪は地面についてしまうだろう。肌は生き生きとした、梅花のような白さ。ほのかに赤らむ頬。年は俺とほとんど変わらないだろう。彼女は俺と同じ側の歩道に立っていて、その反対側を見据えて憂いを帯びた表情をしていた。
 ――綺麗だ。
 着ている服は普段見るような洋服とは一味も二味も違っていて、月夜の風景と相まってまるでかぐや姫が着ている服と錯覚するほど優美なものだった。
 ――演劇の衣装だったらこんな華美な装飾もあるのかもな。
 どうやら彼女のことを気に留め続けているのは俺だけのようだ。向こう側でランニングをして、一定のリズムで白い息を吐くジャージ姿の男。コンビニから出てきたスーツ姿の女性は会社帰りだろうか。こんな時間帯で人の気配を気に掛ける時間帯ではないにしても、どうしても彼女の様相はとても目立つ。しかし誰もその存在を認識できず、まるで厚い雲の奥に隠れている一つのすじ雲のようだった。
 そして心のどこか。こんなにも彼女のことを気に留め、意識しているというのに心のどこかではこれは恋ではない、とわかっているのが不思議だった。
 彼女は何かを呟く。一定の間をおいて、同じフレーズを繰り返している。何を言っているかはわからないが、四文字なので口の動きから言葉を読み取ることは容易だ。そして俺は知らず知らずのうちにその言葉を口に出していた。
 「ごめんね……?」
 摩擦で焼けたゴムの匂いと耳をつんざくような音。刹那、怪しく蛇行していた軽トラが向こう側で走っていたジャージを着た男を直撃した。
 硬いはずであるコンクリートの塀がいとも簡単に崩れ落ちて、破片が奥の駐車場へと転がり落ちた。血飛沫が飛散して、血塗れた肉片が軽トラのフロントにへばりつく。人がコンビニから、吐き出されるかのように数人出てきて、興味の赴くままに野次馬となっていった。直視するにはあまりにも悲惨で画面の上でしか見たことがない非現実な光景。これを黙視することを意識以上に体が拒否し、顔を背けた。その先にはさっきの彼女が立っている。彼女は動揺する素振りを欠片も見せずに、事故が起こる前と同じ表情で正面を見据えている。
 ――くそ、嫌なもん見たな。さっさと離れよう。
 現場から背を向けて遠ざかろうとした直後、腹痛を酷い痛みが襲った。頭の中が真っ白になり、微かに体が浮き上がる。着地することに気づけずに俺は骨の髄まで着地の衝撃を受けた。その後意識を取り戻して、誰かに殴られたのだと察する。歩道橋から山道まで、両の足が浮腫むほど歩き続けた俺は足を踏ん張ることが出来ずに、膝から崩れ落ちてうつ伏せに。倒れる間に殴った相手を見ようとしたけど、視界の端に一瞬移るだけだ。まったく判別できない。
 ピリッと冷えた夜色のコンクリートが頬に当たって妙に心地よい。そんな危機感皆無で阿呆丸出しのことを考えていたら、後頭部下に別の痛みが生じてその意識は気づかぬうちに泥濘の底に沈んでしまっていた。


☪ฺ



 ぱちり。
「ん……あ……?」
 豆火のように小さな、寝起きの沼の底に溜まった意識を浮上させる。瞳が乾いてしまったのかあまり目が開けられない。手をまさぐってみると、布地に触れている……というかこれは布団だ。毛布をかぶって寝ている。かろうじて開いた目からは細い視界を覗かせる。朝だ。耳から微かに雀のさえずりが聞こえる。窓から差し込む朝日がまぶしい。  むくり、と体半分を起きあがらせる。それと共に、昨日残ったままの痛みが腹の中で転がる感覚。
「おー、ちゃんと生きてる生きてる」
「ん、起きた?」
 声のした方に見ると、座っている少女二人がこっちを向いて話していた。
「ここは……家か?」
「そう。お前がいるのは木造建築二階建て耐震補強付きで築十八年の小美野家だ」
「……はぁ」
 とりあえず適当な単語を並べただけの寒いセリフは無視。キャッチセールスにするには普通すぎる要素だろうに。
 昨日引っ越してきたマンションの自室じゃないのは確かだ。ここは畳が床に敷き詰められた和室、のようだけど……そういえば昨日はどういう風にして眠ったんだっけか。
 思い返す。たしか引越し先の家に到着して、荷物が届くのは次の日と聞かされていたので暇になった。なので趣味の散歩をかねてこの町を周覧していたんだ。住宅地の複雑な道筋を把握するためだったのだが、気分というか好奇心が変に刺激されて田畑の奥に屹立している小山へと向かい、その先に廃神社を見つけた。鳥居の注錬縄が半分しかかかってなくて、ツタが上のほうまで絡まっていた。奥にある廃神社の中は殺風景で唯一、軽く風化したご神体だけが残っていた。それほど人々に忘れ去られた場所だったのだろう。人の手が入った土地だとは思えなかった。
 別世界に迷い込んだような不思議な空気。この先に何があるんだろうという好奇心。無駄に長くて所々風化して欠けた石畳の階段を上りきると、令像や神霊が祀られる奥の院を見つけた――そんな風に、半分冒険者気分で遊んでいるといつの間にか日が暮れて、さらに道に迷ってしまったんだった。たしか一回意識を持っていかれるように眠ったような気が。
 その後の記憶が酷く曖昧だな……。忘れるはずのないほど驚く出来事だったはずだったと思うんだけど、ダメだ。どうしても思い出せない。……俺、どうやってここに来たんだ?
 と考えていると女の子がおでこを近づけてきて、俺が避ける間も無く、おでこ同士をくっつけた。
「――!」
 驚きのあまり半歩ぐらい離れる。
「ふふふ、ずいぶんと狼狽してるじゃないか」
 そりゃ初対面の女の子にそんなことされたら誰だって慌てるわっ。
「月奈ちゃん、男の子にそんな近づいちゃダメだよ」
 え、ちょっとそれは言い方が酷くないか?
「そういう言い方だと、こいつが邪魔者か厄介者みたいな言い方になるぞ?」
「えっ、ああいや、そういう意味じゃないのっ。初対面の人に馴れ馴れしくしちゃ失礼ってことを言ったわけで、べ、別に男の子が悪いっていう意味じゃないよっ。ええとええと――名前教えて欲しいなっ」
 どうやら「人」とか「男の子」の部分で名前を使いたかったけど、まだ聞いていなかったことに気づいたらしい。
「桜田隆一だ」
「うん。あーえっと……別に悪気はないからね?」
「わかってるから大丈夫。えっと、隣の奴は?」
「小美野月奈だ。ちなみにさっきのは熱が出てないかのチェックをしただけだから」
「それもわかってる。で、小美野たちは姉妹なのか? 同じ屋根の下だから当たり前だろうけど」
 それにしてはあまりに似ていないから。
「うーん、まあそんなかんじかな」
「うん。あと、苗字で呼ばれるとわたしも佐緒里も返事してしまうから名前の方で呼ぶように」
「る……月奈と佐緒里、でいいのか?」
「うん。わたしからは桜田君でいい?」
「ああ」
 女の子を名前で呼ぶのが小恥ずかしいのは俺だけだろうか。微妙に顔が熱くなって脇に変な汗をかいている気がした。
 閑話休題。
「で、そろそろなんで俺がここにいるか教えてくれないか?」
 月奈はしたり顔で、
「知りたいか? 知りたいのなら教えてやる。わたしは新説だからな」
「新しいストーリー?」
「ん……ああ間違えた。親切だからな」
 吸い込まれてしまいそうなほど深い緑の色をした長髪を垂らした月奈は、わざとらしく咳をして言い放った。
「ここは、対天使病用第七勅使河原集中治療室兼実験体保管室(エンジェライト)だ」
「な、なんだって――!! え、ちょ……いやいや本当になんだって?」
 しまった! 1回目では無視したのについ反応してしまった!
 だからなんだという話ではあるが。
「ははっ、いやまあ冗談だ。ちなみに勅使河原はテシガハラと読むんだぞ。よし、言いたいことは全部言ったし、あとは佐緒里、代わりの説明頼む」
「はいはーい」
 傍観。佐緒里は月奈の傍若無人さに嫌な顔一つ作らない。慣れているのだろうか。
 肩にかけた髪がふわりと弾んで、優しさを帯びた口調で語りかけてきた。
「ええと、大丈夫かな?」
「ああ。ここまで運んでくれたのか?」
「ううん。運んできたのは月奈ちゃんだよ」
「そうなのか、ありがとう。命の恩人だな」
「なんだ、恥ずかしいことを言う奴だな」
「ははっ、まあ大げさかもしれないけどな」
 でも倒れるまでの経緯の一番大切な部分。それが霧がかったようにわからない。
 ……ん? 今、月奈が一人で運んだって……女の子一人で俺を容易く担いで歩けるもんなのか? 
 まあいいや。五体無事なんだし、結果オーライだろう。
「で、逆に訊くけどお前はなんで倒れてたんだ?」
 誰もいない窓枠の方へ顔を背ける。誰にも言いたくないという姿勢を汲み取ってほしい……言うだけ情けないし。
「なんだ、せっかく助けてやったのに、理由さえ教えてもらえないのか」
「それを言われると弱るな……話さないとダメか?」
「そんな、無理だったらいいんだよ?」
「話さないとお前はホームレスか売れない大道芸人もしくはミュージシャンもといピン芸人だということにしてやろう」
「おいやめろ。わかった、ちゃんと言うから」
「おぉっ! わかってるじゃないかっ」
 赤っ恥覚悟で話すしかないか。気を取り直して、目を輝かせている月奈のほうへと向き直る。
「昨日引っ越してきたばかりだったからだと先に言い訳しとくけど、この町がどんなかんじか知るために散策していたんだ」
「うん」
「思った以上に楽しかったんだぞ? 町の風景を一望できる公園とか、空いっぱいの桜の花とかな。あと、廃れてしまった神社を見たりだな。そういうことをしてるうちに道――」
「うん」
「――じゃなくて、分岐路を誤ったんだ」
 意地を張ってちょっと格好良く言うことで誤魔化してみた。
「そうか、道に迷った迷子君だったんだな」
「できればわかってても言わないで欲しかった!」
 少しは男の威厳を持たせてほしかった!
「佐緒里、今のはまずかったのか?」
「んー、今のはわたしもよくわからなかった」
「気にしなくていいんだ……別に気にしてないから……」
 意地張った俺がバカだったよ、うん。
「話が逸れてる。わたしが聞いてるのは倒れた理由だぞ」
「ああ……それなんだけど、覚えてないんだよ」
 腹の奥に鉛をぶち込まれたような(別に銃で撃たれたわけじゃないんだけどな)痛みの余韻は残っているからこれが手がかりになるんだろうけど。
「全部忘れちゃったの?」
「もうきれいさっぱり」
「病院とか行ったほうがいいんじゃ……」
「いや、行ったところでどうにかなる話でもないだろ」
 記憶がすっぽり抜け落ちている状況っていうのは少し身震いするけど。
「それより――」
 なにか食べさせてくれないかと言おうとしたその刹那、佐緒里たちが入ってきたところから男が入ってきた。
「ほー、なかなかの好青年じゃねーか。まあオレほどではないか」
「あ、お父さん。何してたの?」
「いやなに、ちょっとな」
 二十代前半くらいの男。身長は多分俺よりあるだろう。肩幅もある。タバコの独特なにおいが鼻につく。彼女たちの親にしてはそこまで年をとってないように見えた。
「ええと、父親?」
「だーれがお父さんって呼んでいいっつったー!」
 意味が違う。と言うよりまず話しかけた人から違う。
 男は憤慨して、大仰な足音で畳を揺らしながら近づいてきた。
「じゃあお兄さんですか?」
「ちっがーうっ。なんだお前は将来、お前の弟になるのか!?」
「え、そうなの桜田くん?」
 なぜか話が悪い方向に飛躍して、しかも佐緒里が反応していた。
「ふ、ふつつかものですがよろしくお願いします……」
「なにぃ! 俺がそんなの許さん!」
 会話が突然飛躍しすぎて頭がついていかない。
「佐緒里はそこで律儀にお辞儀しないでくれ。否定してくれ頼むから」
「こいつ……もう佐緒里なんぞと親しげに呼んでやがるっ!」
「それは佐緒里がそう呼んで欲しいからって――」
「佐緒里が欲しいのならこの俺を倒していけ!」
「なんですかその三流悪役もとい頑固親父キャラはっ」
 身形だけはとても褒められるのに、性格が余りあるくらいに変だこの人!
「……ふ、なかなかにクールボーイ気取ってるじゃないか。勝負は何がいい」
「なんでやること前提で話が進んでるんですか」
「殴り合いか? それとも紳士にスポーツといくか」
 聞けよ。
「なんだおいおい、紳士にスポーツじゃなくて紳士のスポーツがいいのか? まったく仕方ないな。そうだな、ナンパで勝負するか!」
 なんで今の会話でそうなる。っていうかそういう風に会話を進めたいだけじゃ――
「おいおいいくら紳士と言っても大人な、アダルティックな勝負は止めてくれよ?」
「誰がしますかっ!」  ダメだ。このままだと全く話が進まない。仕方無しに声を張り上げる。
「俺が言いたいのはっ、あなたがっ、佐緒里の何なんだってことだっ!」
「ん? なんだ、佐緒里が俺と恋人同士に見えて嫉妬でもしてるのか。羨ましいだろ、ハッハッハ!」
「ええっ、わたしたち恋人だったんですかっ?」
「そうらしいな! 俺たちのラブラブっぷりを見せ付けてやろうぜ!」
 俺の言い方が悪かったのかな……もうどうでも良くなってきた。
「そ、そんなのないですよ?」
「数秒でフられた……」
 その男はまるでボクシングの試合の後、コーナーの淵で真っ白な灰になった彼の人のようになった。
 ああもうわけがわからない。何か言えば男が変に解釈して訳分からない状態になるし。それを佐緒里は疑わないから拍車をかけておかしくなるし。
 音を立てずにそっと月奈が男に近づいていく。その様に俺は何らかの助け舟を期待したが。
「残念だったなっ」
 肩に手をポンと置いていた。しかも万遍の笑みで。
 ああもう、酷いめまいがする。
 そういえばさっき言いそびれたけど――
「腹減ったなぁ……」
 半日以上は何も食べてないし。眠ってる間に取り戻した体力も大半が、今の脈絡のない会話で全部彼方に飛んでった気がした。



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