「ということで俺は梶野ってんだ」
 テーブルを4人で囲んで食事しながらの会話。
 さっきの会話が一応落ち着いて、俺が丸一日何も食べていないと呟いたら、突然佐緒里が慌て始めて、なんだかんだと言いくるめられて飯を相伴に預かることになった。
「ということでって……話が一転二転して訳がわからなかったんですけど。あと佐緒里のお父さんっていうのは?」
「男なら細かいこと気にすんなっ」
「はぁ」
 梶野は頭のネジが数本外れてるんじゃないのか。失礼だと思うけど、精神年齢は俺より下だと思う。でも念のため、年上だし丁寧語使っとくか。
「じゃあ、梶野って二人の父でも兄でもないんですか?」
「ただの居候だぜ。ハッ!」
 胸張って答えることか、おい。
「違うよ。家族だよ」
「いや、でもな、これでも住まわせてもらってる身だぞ?」
「家族っ」
 佐緒里はずいぶんと強情に詰め寄るな。それだけは譲れない訳でもあるのか?
「あー、はいはい。大切な家族な」
「うんっ」
 主張の弱い子だと思ってたけど、意外なところで言い張るな。家族ってそんなに大事か?
 それはそうと家内には佐緒里と月奈の父親と母親はいないのだろうか。共働きで両方とも出かけてるのかもしれない。でも俺を助けた際に世話になったかもしれないし、お礼言っておかないと不義理にもほどがあるな。
 と思ったが、小美野家の両親について質問することを俺はなぜか躊躇った。礼ならいつでも返せる。その時まで待てばいい。家庭環境について変な方向から追求して、俺のような暗い部分を掘り当てたら気分が悪い。ただでさえ、梶野がいるせいで佐緒里たちの家庭環境が普通ではないんだ。下手に踏み入ってしまう可能性が高い。
 とっさに違う話題を挙げる。
「梶野さん、下の名前ってなんですか?」
 梶野さん、と呼びにくいから下の名前だったらもうちょっとましかと思ったのだ。
 だがこの発言の刹那、梶野さんの体がピキッと硬直する。豚カツに伸ばしていた箸が、いきなり電気の供給を遮断された機械のように不自然に止まったからだ。
「いいこと聞くじゃないか桜田。梶野の名前はこ――むぐぅっ」
「こ?」
 月奈が話そうとする口を、梶野さんがものすごい形相で止める。その余波で食材を乗せた皿が音を立てた。
「コウジだ」
「は?」
「もごもごごー!」
 かなりドスの効いた声。
「俺の名前は、コウジ。いいな? わかったら頷け」
「は、はあ」
「もごごー!」
 なにやら妙にこもった反抗の声は無視。コウジ、浩二とでも書くのか。というか本当にそういう名前か? コウジだったら月奈が面白がって話したがり、それを梶野さんが口止めする理由が見つからないだろうに。
「なあ佐緒里、梶野さんの名ま――むぐぅっ」
 言い終えるより前に、梶野さんが俺の口に手をかぶせる。
「苦しみながら意識朦朧となるのと、一瞬で白目になるのを選ばせてやろうか?」
「どっちもいやです……」
「じゃあこれで話は終わりだ。詮索すんなよ。絶対すんなよ!」
「わかったよ」
「よろしい」
 梶野さんは大仰に納得し、昼食へと目を戻した。
 ……どうしようか。詮索を止めるか? いやいや、これは押しちゃいけないスイッチを見つけた気持ちだ。俺なら押す。スイッチを押すだろう。誰かが見ていても気にせず押す。よし、機会があれば月奈に聞いておこう。
 ちなみに当の月奈は未だに口を塞がれて苦しそうにしていた。
「もごごごー!」
「おっとすまん。忘れてたわお前のこと」
「がぶっ」
「痛ぁーッ! てめっ、噛みやがったなっ!」
「うっさいっ。いつまでも口塞ぐからだっ」
「お前がいらんこと言おうとするからだろっ!」
「いらんことじゃないっ。桜田の質問に答えただけだっ。もう怒った。罰としてその豚カツ一切れ貰うっ」
「生意気なっ。手元がら空きだぜっ!」
 月奈が梶野さんの皿にある豚カツに手を伸ばし、梶野さんも月奈に向かって箸を伸ばした。
「うわっ、二切れ取ったなっ。わたしは一切れなのにっ」
 しゅばっ
「あー! 全部とりやがったっ! なら俺もっ」
 もう一度豚カツに伸ばした梶野の箸を、月奈が巧みに箸先を操って止める。
「ふっふっふ、同じ手を食うわけないだろっ」
「ぐぬぬ……!」
 ぐぬぬってアンタ……。
「佐緒里、こいつらいつもこんなかんじなのか?」
「うんっ。なんだかよくわからないけどすっごく楽しいよね〜」
「へー……」
 家族か。こういう楽しげな家族は絵空事だと思ってたな。交通事故と同じくらいテレビの上でしかありえないものだと。
 豚カツを一切れ口に含む。美味しい。肉に衣がしっかりとついている。
 偶然にも助けてもらった彼と彼女らに、改めて心からのありがとうを胸の中で呟いた。


☪ฺ



 太陽が最も高く上る時間から少し過ぎ、日光で温められた地面が程よく空気を暖めた頃。
 寝床を与えてもらい、食事をご相伴になった。
 変わった人たちと触れ合って、家族のようなものと接した。
 そして食後の一服に考えた。そろそろ自宅に帰ろうと。
 もしかしたら引っ越し業者の人がマンションに来ているかもしれないし。
 でもその前に恩を返さなきゃな。
「なあ、俺にできることはないか?」
「え? ううん、特には……どうしたの?」
「恩を返したいと思ってさ。なんかないかな」
「ええっ、別にいいよ。そんなつもりで助けたわけじゃないし」
「いやでも、お礼はしたいからさ」
「いいよいいよ」
「いいよいいよ」
 互いにいいよいいよ合戦を何度か交わすと、これはすごく不毛だとわかったのでこっちから譲歩することに。
「じゃあ、いつか恩返しさせてくれよ。俺、できるかぎりすっ飛んでくるからさ」
「……えっ、あ……う、うんっ。ありがとっ」
「大丈夫か? 顔赤いぞ?」
「だ、大丈夫だよっ!? わたしすっごい元気っ!」
 両腕で脇を締めたガッツポーズみたいなものをとった。依然として顔、というか耳までサクランボの色に染まっているのだけど、本当に大丈夫か?
「まーいいや。とりあえずそろそろ御暇させてもらうわ」
「うん? ずっと居ていいんだよ?」
「アナタ、俺をなんだと思ってるんですか」
 思わず敬語になってた。
「うーん、宿無しで流浪の旅人かなぁ?
「そんな可哀想なヤツだと思われてたのガッデム。俺は高校生だよ」
「ふえ、そうなの? 学年は?」
「高二。十六才だよ」
「わ、同じだ。どこの高校行ってるの?」
「あー、何て名前だったか……せ、から始まる三文字の高校、だったような」
 佐緒里がしたから覗き込むように訊いてくる。
「漢字で書くと何文字?」
「たぶん二文字」
「もしかして旭碧高校?」
「あーそうそう、それだ」
 佐緒里の挙動が硬直し、瞳を何度かパチパチとしばたたかせる。無垢な瞳でじいっと見つめると、口元に指を当て数秒考え込む素振りを見せた。
 佐緒里が表情をころころと変えていく姿は楽しいな。
 そんなことを考えていると、いつの間にか佐緒里は燦然と瞳を輝かせていた。
「月奈ちゃん月奈ちゃんっ、わたしと桜田くんが同学年で、同じ学校だよっ!」
「桜田が動画のアジに興奮してる? なんだそれ」
「はっはーん。隆一お前、生粋の変人か」
 そりゃこっちのセリフだ。どこをどう聞き間違えればそんな解釈ができる。
「違うよ〜。桜田君が同い年で、行ってる学校も同じなんだって」
「ほう。学校ではこんなヤツ見たことないな」
「そりゃ、俺は今年度からの転校生だからだろ」
「ああ、お前がそうだったのか」
 どうやら話題なる程度に噂が広がっていたらしい。
 都会からこの郊外までの転校だ。顔見知りだったほうがびっくりする。
 ……それに、顔見知りがいればそれはそれで困るだろうしな。転校の意味がないし。
「転校生っ? 高校でも転校生っているんだね」
「まさか俺がその転校生になるとは思いもしなかったけどな」
「わたしも転校生が来るなんてびっくりだよ。中学でなら少しはあったけどね。うん、同じクラスになれたら嬉しいな」
「ああ、その方が助かるよ。少しでも顔見知りは多い方が親しみやすいしな」
 だからといって過去の俺の家族を知っている奴がいたら困惑するけど。
「ちょーっとピンク色の空気。なんなんですかねこれ、梶野師匠」
「いやあ。ハーレム状態を奪われた俺にとっては月館が佐緒里を付け狙う狼にしか見えないですね、月奈公よ」
「ふむふむ。それはいけません非常にあってはならないことですよ、梶野師匠」
「佐緒里がこんな変態野郎の毒牙にかかってしまうっていうのはいただけないですな、月奈公よ」
「そこっ! 茶化すなっ!」
 ここに来てからようやくまともな会話が続いたと思ったのに! 
「むう。抜刀許可は」
「抜刀!?」
「おっしゃ、許す。その起伏のないまな板の体のどこから出てくるかわからねェアレで存分にかっ飛ばせ」
「まあ、元々許可はいらないし、ぶっ飛ばすのが桜田とは一言も言ってないが……!」
 月奈が後ろに手を回す。
「いくぞ変態王――覚悟の貯蔵は十分か」
「それって釘バット……」
 どこから取り出したんだその長物。ヤバい、こっち来た。
「天誅!」
  釘バットを横薙ぎにして俺を吹き飛ばす、かと思いきやそのまま百八十度反転してその軌道を梶野さんに向けていた。

 ――――スバシッコーンッッ!

 宙に人が舞う姿を始めて見たと思う。
「今、遠まわしに胸のこと言っただろ。その罰だわかったかっ」
「梶野さん完全に伸びてて多分話聞いてないと思うぞ」
「まあな!」
「褒めてないから胸張るな」
「無い胸を?」
 ゴスッ
 あーあ梶野さん、余計なこと言うから。
 もうどこからツッコミを入れればいいのやら。梶野は変な方向に曲がって伸びてるし、佐緒里はまったく狼狽せずに万遍の笑みだし……。
「佐緒里、これもいつもの光景なのか?」
「うん。漫才みたいでおもしろいよね」
 ……よし! 考えるだけ無駄っていうか負けか!
 閑話休題。
「とにかく、そろそろ帰るな俺」
「もう、行っちゃうの?」
「こんなに世話になったんだ。長居しても悪いだろ」
「もう帰ってくんなよ。そして俺をハーレム状態にさせろっ!」
 欲望丸出しだなおい。盛りのついた犬でももう少し謙虚に行動するだろうに。
 玄関口に移動して靴を履いて立ち上がる。急に立ち上がったせいか、頭の中が急に冷たくなり、血が抜け落ちた感覚がした。耐え切れず床に腰を下ろす。床を強く叩く音。見上げると皆、目を丸くしていた。
「大丈夫? ついていこうか?」
「いや、今のはちょっとふらついただけだから」
「でもえっと、また倒れたらまずいし」
「いいっていいって」
 もう一度足に力を入れて体を起こす。包丁にへばり付く脂のようにしつこく底気味悪いものが魂を侵食していく。
 さっきと同じような立ち眩み。気づいたら壁を背に、大きく息を吐いていた。
「おいおい、本当に大丈夫かよ。もちっと休んだ方がいいんじゃないか?」
「俺はそんなになよっちくない」
 実質体調は良くないんだけど。でも後はマンションに戻って休めばなんとかなる。今日くらいに荷物も届くし、家に居た方がいいだろう。
 だが佐緒里はその意思を曲げない。
「うん。わたしついていくよ。また倒れちゃったら困るもん」
「いや、ホントに回復したって」
 ずずいと強い意志で押し迫る佐緒里。その眼から心配している感情がひしひしと伝わってくる。その後ろでは月奈が半目になって、こちらを覗いていた。
「著しく説得力が無いな。たぶん佐緒里はまだお前がここで療養することを望んでいるぞ。それを譲歩して言ってるんだ。言うこと聞け」
「あう……」
「ぐ……」
 正直、男として女に助けられるってのはかなり傷心モノなんだよ。いや一度助けられちゃってるけどさ。でも二度目ともなるともうプライドはボロ雑巾のようにずたずた。できれば今回は自力で帰って、後々にそれなりの恩返ししときたいわけなんだよ。
 と、すこぶる情けない言い訳を使うわけにもいかず
「あーわかった。付き添いお願いするわ」
「うんっ」
 既に世話になっているから、今からもう少し世話になったところで五十歩百歩みたいなもんだ、と誤魔化すような結論付けで渋々ながらも了承した。


 ついさっきまで鈍重になっていた体は、絡み付いていた鎖を全て振り払った後のように軽くなった。夜間だったらどこに立っているのかわからなくなるほどだった景色も、昼間だとなんとなくだが現在地から帰る道のりも理解し得るだろう。
 春先には同じ方向から吹き付ける恐怖が遥か上空に吹いている。白雲は抗うすべもなく風に流され、時折太陽と下界の間に割り入ってこちら側に影を落とす。町のトーンを落とし、人々はそれを不安がったり、おもしろがったりする。いつの時代も、どこの人々も。
 こういう何気ない風向を幸せとして感じることが得意だ。この考えはかなり年寄りくさいだろうけど、だからといって気にしてはいない。誇れる自分らしさとして捉えている。斜め上にある住宅のベランダで干してある女性の下着を見て、興奮する輩とかならまた話は別だけど。
 そんな俺が実家から出て行き、誰にも知られない場所にまで移住してきた。そして散策中に迷子になって最後には倒れ、一時的に介抱された。
「もうほんと数奇な運命だよな」
「どういうこと?」
「いやまあいろいろだ」
「うん? なにか隠して――きゃっ」
 甲高くて短い声が聞こえた方へ振り向くと、佐緒里が突風に吹かれて俺の方へ体勢を崩しかけているところだった。風になびくスカートを押さえて、体勢を立て直そうと足を開く。
「わわっ、きゃあっ」
 しかしその足が踏みしめたのは地面ではなく、俺の足の甲だった。
「痛ッ」
「ご、ごめ」
 慌てた佐緒里は顔を真っ赤にしつつ、手をあたふたさせながらバランスを保てなくなり、体をよろめかせて向こう側に倒れていく。
「危な――っ!」
 気づいたら佐緒里の腕を思い切りつかんで、こちら側に引き寄せていた。咄嗟に強い力を入れてしまったせいで佐緒里はたたらを踏んでしまって、吸い寄せられるように置かれた手のひらが俺の胸元に。
俺の胸元へと吸い寄せられるように手のひらを置いた。
「あ……」
 ぴたりとくっついた佐緒里との空間の隔たりはない。髪の毛からほの甘いシャンプーの微香がして鼻孔をくすぐる。女の子、それも砂糖菓子でできたかのように少女らしく振舞う子。いやまあ実際少女だけど。とりあえずどぎまぎしてしまう。熱に侵されたかのようにぼうっとする。
 ふと、この状況をなんとかしないといけないと正気付き、佐緒里のほうも同じように我に帰ったのか、どちらからともなく離れた。胸元に涼しい空気が入り込む。
 ああ……怒ってるかもしれないな。俺なんかが下手に引き寄せたせいで触ってしまったんだし。
「ごめん、大丈夫か?」
「……うん」
「怪我はなさそうだな」
「うん。桜田くんも……その、大丈夫だった?」
「なにが?」
 さっき足を踏んでしまったことだろうか。それなら踏んだ直後に謝られたわけなんだが。
「えと、その、もたれたとき重かったりとか……」
 きょとん。一瞬だけ間が空く。なんだそんなことか。
「ぷっ、あっはっは! なに、人一人支えることなんてわけないって!」
「うぅ……笑わないでよぉ。真面目に聞いたのに〜……」
 からかい甲斐あるなぁ。男という菌がほとんどない無菌室のような生活だったんだろう。だから免疫がないんだろうな。その一挙一動を見ていればそんなかんじがする。
「ん……なんだこの空気は」
 後ろから聞こえた声に反応すると、そこには月奈がいた。
 月奈は俺たちの間に割って入る形になった。
「お前は家で待機じゃなかったのか」
「いや、そんなの一回も言ってないな」
「じゃあ何で来たんだ? 佐緒里と似たような理由か」
「誰がお前の心配なんてするか。桜田が送り狼になるかもしれないから来たんだ」
「あーさいですか」
 それなら送りと言うより送られ狼だろうに。
「佐緒里、どうしたんだ? 耳の先まで真っ赤っかじゃないか」
「ああぅ? い、いや、大丈夫だよっ?」
「大丈夫ってことは何かあったってことだ」
「あわわわ、何もなかったよぉ〜」
「佐緒里は隠し事なんてできないんだから……いいから話してみて」
「うう……」
「内容によっては桜田を空中ハメコンボに処す」
「怖っ! なんていうか……怖っ!」
 冗談だよな……人ができる技じゃないしっ。
「内容って、例えば?」
「風に吹かれてバランスを崩した佐緒里を桜田が受け止めて、すごい気まずい状況になったりとか」
「お前見てただろっ!」
「……フッ」
「性悪だっ!」
「む、それは心外だな。わたしは佐緒里のことを思って行動しているだけだ。それを性悪とまで言われると、さすがのわたしでも乙女心が傷つく」
 月奈は悪戯心を楽しさに微笑を見せているわけではなく、真剣に眉をひそめていた。どうやら本当に傷心したらしい。
「悪いな。言い過ぎたよ」
「悪気がないみたいだし赦す……ってなんか騒がしいな」
 耳障りな、耳の奥で音がこもって腹の奥で乱雑に反響しそうなほど無視しきれないほど大きな音。サイレン。音が右肩上がりに大きくなっていくので、推測するところ公共施設に取り付けられた物じゃなくて、救急車やパトロールカーなどの緊急自動車の上部に取り付けられた物だろうな。
「なんかあそこ煙立ってないか?」
「黒い煙……火災でも起きてるのか?」
 細く、のたくったミミズのように空高くまで伸びた黒煙。その切れ目は首を痛くするほど傾けても見当たらない。方向からして俺の家のほうなのだけど……
「通り道だし、ちらっと見てくか」
「なんか不謹慎じゃないかな?」
「通り道なんだ。見ないようしてやり過ごすってのが無理な話だろ」
「うん、それもそうだね」
 なぜか暗い面持ちな佐緒里を傍目に十字路を右へ進む。連なる家を二軒ほど飛ばしたその先に、赤い光沢をその身に走らせた消防車が数台停止していて、銀色に光る防火服を身にまとった消防士が必死に消火活動をしているのが見えた。進入禁止と書かれたテープによって見物人たちは仕切られ、火災現場には入ってこない。心配そうに見守る主婦や、我先に写真を撮って状況を楽しむ若者。消火活動に心血を注ぐ消防士。
嫌な予感が首根から背筋をたどって、腹に溜まっていく。あそこがどこか、俺にはもう分かっていた。ふと、気づけば火災現場を目の前にしていた。
「あれって、俺の借家……」
 一瞬で風にさらわれてしまうほど小さな声で呟く。
 集合住宅、俗に言うアパートとかマンション。
 家は、これから暮らすはずだったマンションは赤く、残酷なほど激しく燃えていた。 大蛇がのたうつような炎が眼前にあり、屹立とそびえ立っていた古いマンションの全てが火に包まれていた。赤い消防車が数台、火を消すためにホースから大量の水を噴射しているけど、たとえ鎮火しても住めるような場所にはならないだろう。
 酷くこげたにおいが鼻をつく。
 俺の思考回路を侵食する赤と橙の混ざった視界。
 記憶にもあるこの光景。
 デジャヴではない実際に起こったこの光景。
 紫色になるほど変色した下唇。
 また、またか。まだ俺が生きることを拒むのか。
「くん――」
 猛火がこちらに迫ってくる。熱い痛い焼ける助けて助けて助けて。
 視界。炎以外のものが靄をかけたかのようにぼやけていく。頭が痛くなるほどのサイレンの音も――
「桜田君っ!」
「――?」
 視界に一人の少女。意志のこもった視線がこちらに向いている。それが佐緒里だと認識したのは数秒後のことだった。
「あ、ああ。なんだ?」
「急に走り出したりして……どうしたの?」
「……これ、俺の家だよ」
「へー家なんだぁ。――ふえぇ!?」
「ははっ、ワンテンポ反応が遅いなぁ」
「ま、まだ中に桜田君の親とか居るんじゃっ」
「いんや、ここで一人暮らしする予定だったからな。親はもっと別のところにいるよ」
 いる、というのもなかなかもって曖昧な言い方だけどな。余計な心配はなしだ。
「そっかぁ。親って桜田君の実家にいるんだよね」
「まあそういうことだ」
「そこって遠いの? ――あ、いや、言いたくないならいいけど」
 ここから遠い、遠き地名を告げる。恐らく聞いたこともない所だろう。
 佐緒里は驚きの表情を見せた後、言った。
「とりあえず一度、わたしたちの家に来る?」
「どうして」
「えと、一度心を落ち着かせたほうがいいんじゃないかなって」
 それは光の繊維を組み込ませて作った極上の飴玉を天使が俺に渡すかのような、上々の提案だった。
 上辺だけ平素を振りまいているが、実のところ手に汗が止まらず果たして今、本当に体温を保持して生きているのだろうかと疑ってしまうほどに背筋が凍りついていた。
「……いいのか?」
「うん。おいで」
 首肯する。この場から逃げるようにして月奈が俺の背中を押す。俺はその力に流されて、小さく歩を進めることしかできなかった。

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