夕暮れ。世界が朱に染まるころ。田に埋められて青々としている稲穂と浸された水面が黄金色に塗り替えられて、整然と視界の果てまで地平線に沿うようにして伸びている。前髪を浮かせる少し乾いた風が冬の残滓を感じさせた。V字型に陣形を組んで真上を飛ぶ鳥。黒い点々となって見えているので、何の鳥か区別はつかないけれど。 これからどうする? 家から焼け出されて、それと共に心も灰になった気分だ。始めて来た町に大して知り合いはいない。アテもツテもない。だからといって、親類には頼りたくない。あんな、あんな自分だけは黄金を手に入れて足元で泥水を啜っている奴を見下して、嘲笑っているような人間の皮をかぶった悪魔に頼りたくはない。それは臓腑の底に悪鬼が巣くったような感情になった時だけだ。今でも思い出せば腹いせに壁を全力で殴りつけたくなる。 いや、こんなことはどうでもいいんだ。それよりも今の問題をどうにかしないと。最悪野宿でもかまわないのだけど、それだと警察に保護されるだろうし……それに。 「どうして月奈はずっと俺の背中を押しているのかわからないし」 「あのままだと焼けたマンションに突っ込んでいきそうだったから」 「……俺は猪か」 「冗談だ。呆けてる桜田を見てられなかったんだ。腐った魚のような目をしてたぞ?」 「ったく、どんな目だよ」 ポケットに親指を引っ掛けながら苦笑いをする。 「月奈、とりあえずもうそんなことしないからこの手をやめてくれないか?」 月奈が両の手で背中を押し、俺が不自然二歩を進めてそれを傍から佐緒里が見守っている。ほかの人が見たら奇異の目と嘲笑が飛び交いそうなのでもう止めてほしいんだけど……。 男が女をお姫様抱っこしている図だったら、驚きと敬愛を込めた視線がありそう(それでもほとんどが奇異の視線だろうけど)でも、これでは女の尻に敷かれ続けている哀れな男(とルビをふって犬と書く)の図だ。後々に思い出す彼女らとの出来事がこういうことだけというのはあまりにも哀しい。 「うん?」 「もう歩けるから背中の手を離してくれ」 「嫌だ」 「なんだその駄々のこね方は」 「駄々をこねているのはお前じゃないか」 「は?」 「お前、火事を見たショックか何かは知らないが、手が震えているぞ。見てみろ」 言われるがままに自分の手を見る。手の平が寒さに凍えて身震いするのと同じようになっていた。両の手を合わせれば湿るくらいの汗ばみ。もう引いていると思っていたけど、あの光景が俺から奪った平静さは未だに影響しているらしい。 月奈の小さな体にどれだけの洞察力があるんだろう。いや、洞察力に体の大小は関係ないけれど。 「ま、その沈黙が答えだな。大人しく従え」 「でも――」 「ああもう、それ以上うだうだ言うと、わたしに後ろから抱きつかれながら歩いてもらうぞ?」 「月奈ちゃん、それじゃ歩けないんじゃ……」 「……ハッ! ならやってもらおうじゃないかッ!」 その場のノリでっていうか、このわけのわからん空気をぶち壊したくて変なこと口走って煽ってしまったっ! まあ冗談だしいいか! 「うりゃ」 その言葉を発すると同時に腰に当てられていた手の平の感触が消え、次には腹回りと背中全域に温かい感触が。 ってこいつ抱きついてるし!小さくて柔らかい胸が胸が胸が。なんなんだチョコボール。いや語呂がいいから言っただけね。 「な、なあ……歩けないんだけど」 「頑張れ」 これじゃあ月奈が送り狼になるんじゃないのか。それはないのはわかってるけどさ。こんなことされると女に耐性のない益荒男どもはコロリと勘違いしてしまうぞ。 と言いたいのを堪えた。時間が垂れた水飴のように伸びた長く思える。 「……お前のおかげで大分落ち着いたからもう勘弁してくれ」 「本当か?」 「まだ手は震えてるけど、火に突っ込んで行くなんて変なことしないからさ」 「……そうか」 月奈の両腕が腰から離れて外気に触れる。夕焼けのひんやりしつつある空気が心を冷ましていく。まだ痺れた感覚の抜けきらない手を握り締める。月奈は佐緒里の隣に並んで歩いている。 でも背中の感触はちょっと名残惜しかったなーとか思ってたり。というか月奈は節操が無さ過ぎないか? 佐緒里はずっと子の光景を微笑ましく眺めていた。ふと佐緒里と視線が合う。俺が不思議そうな表情をしているのを察したのか、佐緒里は口を開いた。 「何か聞きたそうな顔してる」 「ああ、月奈はあまりに節操がないんじゃないかと思ってさ」 「それかぁ……月奈ちゃん人と接するときに遠慮する具合が無いんだよ」 「遠慮の具合? それって、具体的に言うとどんななんだ?」 「安心できる人だとばーって近づいて、それ以外の人にはがっちり壁を作るかな。そんなかんじ?」 いや俺に聞かれても。 「なるほど。それなら俺は月奈に認められたのか」 「そんな訳あるか」 横入りする月奈の反論。 「でも月奈ちゃんが男の子とこんなに親しくなるのって珍しいよ」 「それはわたしにとって敵になり得る奴らがほとんど男だからだ。悪いやつじゃないと判れば、そんな邪険に接しないぞ」 「そうなの?」 「そうだ。ちなみに桜田、わたしにとっての敵は佐緒里に害をなす者全てだ。お前がそういう奴だと判断したなら一切の容赦なしにぶっ飛ばすからな」 「…………」 俺は嫌われているわけではないけど、月奈に認められているわけでもないわけか。 塞ぐような気持ちにはならないけど、自惚れるなと言われているようで心がちくりと痛んだ。 「でも同い年の男の子で友達って始めてだよね」 「うん。今まで寄ってくる男どもはろくでもない奴ばかりだったからな」 「ろくじゃない? ななとか、はちとか?」 「お前はアホの子かっ」 「アホの子? 違うよわたし、女の子」 「……ああなるほど」 もはや疑いようのない事実だったみたいだ。……そういえば体調、何事もなかったかのように良好だな。精神は大きく疲弊してるけど。 「うん、着いた」 夕闇の割合が空の半分以上を占めていて、暮靄が見えづらくなってくる頃。気づけば家の門前。表札には小美野と書いてある。ほかの家からは食欲をそそる夕飯の香りがほのかに漂ってくる。 先に乾いた音と共に二人が玄関へと入った。佐緒里たちの家なのでそれに続くのは少し気が引けたが、そんな微細な自尊心を持つべき状況ではないのはわかっていたので成すがままにする。靴のかかとを揃えて置き、リビングに足を踏み入れると梶野さんがテレビのニュース番組を見てぼうっとしていた。こっちの気配をそれとなく察知すると、声に合わせて振り向く。 「おー帰ったかー。……って、何でお前がまだいるんだ」 「家に帰りたいのはやまやまなんですが――」 四人でテーブルを囲みながら、俺はなぜ家に帰れず戻ってきたかを説明した。ただし言うのは火事のくだりだけにとどめておく。 「ということです。帰るに帰れなくって……」 「なるほどな。で、どうすんだ? 今晩の宿も無い状況なんだろ」 「そうですねぇ。この辺に安いホテルとかは……無さそうだし、24時間営業の飲食店で時間潰すか……」 「この辺で24時間営業のレストランはないぞ」 「ぐっ、そうなのか。さすが……いや、なんでもない」 「さすが田舎とか思っただろ」 「言いたくなかったから濁したのにわざわざ代弁してくれてありがとう」 さて、どうするか。カプセルホテルなんてないだろうし、警察沙汰は嫌だ。レストランも深夜営業していないようだし、野宿は警察に見つかればアウト。一日くらいなら問題ないか。うーん。 「じゃあわたしの家で暮らせばいいんだよ」 「それは御免だ」 「え、どうして……わたしなら全然かまわないんだよ?」 予想通りの答え。あまりの聖母っぷりに俺は言い方を厳しくした。 「じゃあ聞くが、お前はどうしてこうも俺に尽くそうとするんだ。佐緒里がこうも俺に献身的になる必要はないし、俺もここまで尽くされる覚えはない。俺を助けて何のメリットがあるんだ。お前は俺を助けることで何を得ようとしているんだ」 捲くし立てるような言い方しかできないことにほぞを噛む。 得体が知れない、というのは失礼極まりないから言い留まったけど、それに近い感情が俺の中を渦巻く。家族が増える、というのは出産やペットで増える以外はとても迷惑なものだ。いや、出産やペットであっても迷惑に感じる人もいるだろう。まったく知らない赤の他人を家に留めることは異物が喉に引っかかった時の感情に似ていると思っている。俺は佐緒里が得体の知れない者だと言ったけど、他人から見た俺も同じように得体の知れない者だ。そんな者と軽々しく同居できる神経が知れなかった。 一応、俺としては好条件だから断る理由が無い。家賃や電気代、食料品代が圧倒的に少なくなるからな。 「家族を増やしたいから、かな」 「……は?」 佐緒里はその得体の知れない者を増やしたい、と言ったのと同意義だろう。佐緒里の言葉に被せるように月奈が言の葉を紡ぐ。 「佐緒里とわたしは両親を幼い頃に亡くしている。この一軒家も二人暮らしだとやたら広くて、広すぎて寂しい。親子が並んで歩いているのを佐緒里は羨ましそうに見ていたよ。だから佐緒里は家族という形がとても恋しいんだと思う。誰がどの役をやるという話でもないが、家族団らんというのに憧れているんだ」 「…………俺にはとても理解できないな」 「それでもいい。桜田、あまり深く考えないで一緒に暮らしてくれないか? お前としてはこの上なく良い条件だろう」 「そりゃそうだけど、俺は悪い人かもしれないぞ?」 「――桜田君はわるい人なの?」 「いや違うけどさ」 佐緒里を見るとその頬は紅潮していて瞳が潤んであと一押しすると潸然と泣き出しそうな表情だ。 その顔はずるいんじゃないかなー。それになぜか俺が頼む立場なのに、月奈に頼まれちゃってるし……。 「…………わかったよ。なんか変になっちゃったけどお願いするわ」 「本当っ? よ、よかったぁ。びっくりしてちょっと涙出ちゃったよぅ」 「いや、悪いな」 「こらっ」 げし、と月奈のつま先が右足の向こう脛を強打する。 「〜っ!」 「佐緒里を泣かせるなっ」 「まだ泣いてなかっただろっ」 「あ、それもそうか」 「それもそうかって――俺は蹴られ損じゃないかっ」 「男なら気にするな」 「くそっ、便利な言葉だなそれ……」 それにしても家族か。このどこか欠けた集団はどういう家族になるのだろう。忌み嫌っている家族も、佐緒里のような子とだったら悪いものにはならないだろうと思えた。 まあ心のどこかで俺はただの居候で、相互協力関係に便乗しただけと思わなかったわけではないんだけどな。 ☪ฺ 流し台とコンロが直結した台所のある、リビングの隣室。大きなテーブルに潜り込ませて置いてある椅子に座ると、胸くらいの高さの壁が邪魔になって台所が見えなくなる。すでにテーブルの上には色とりどりの料理が並べられている。皆で席について、俺の隣には梶野さん。梶野さんの前に月奈。月奈の隣、もとい俺の前には佐緒里が座っている。 メニューはしょうが焼きにポテトサラダ。ご飯とお味噌汁。中央には皿の上に沢庵が整然と並べられている。 「いただきまーす」 佐緒里の声に続いて月奈と梶野さんもいただきますと言う。 やっぱり言うんだな。いままでこんな輪の外側にいたからなんだか……すごく新鮮だ。 「いただきます。――お、このしょうが焼き旨い。佐緒里って料理上手いんだな」 「そうかな?」 「ああ、すごい美味しい」 「ありがと。でも、みんなお腹空いてたみたいだったから簡単なもので済ませちゃったよ?」 「それでも美味い料理を作れるのが佐緒里だな」 「もし俺らだけだったら毎日インスタントで済ませるぜ。って、隆一は料理できないよな?」 「そうですね。調理台は数回しか立ったことないや」 佐緒里がいなかったらこのメンバーで家事をする人がいないってことか? そうなると、まさに佐緒里がこの家の要だな。俺も多少はできるようにしておいたほうがいいかも。 とか考えていると、前触れもなく梶野さんが俺の首根っこに腕を引っ掛けてきた。 「というか俺のハーレム崩れたんだ。どうしてくれるんだコラ」 「知りませんよそんなこと」 「責任もって出てけ! ……と、言いたいんだけどな」 うっとおしい腕を絡ませながら、二人には聞こえないように耳打ちする。 (実は男同士でゲラゲラ話したかったからお前が住むことになったのは結構助かるんだなこれが) (あーそうなんですか。女の子を見て眼福も良かったけど、あまりぶっちゃけた話ができないから困っていたと) (そうそう。わかってるじゃねーか少年) けけけ、とあまり品の良くない笑いをして背中に回されていた腕が払われる。 「なんだ? わたしたちそっち除けで談義とか感心しないな。しかも目の前でやられると気になる」 「男と男の秘密だぜ☆」 「キショい」 「俺もそう思う」 「グボァッ」 吐血や嘔吐とあまり変わらない効果音を漏らして、テーブルの上に突っ伏す梶野さん。 食事中にしちゃいけない表現だったような気もするが、スルーしておこう。 がばっ。 「佐緒里は気持ち悪く思わないよなっ?」 「ごめんお父さん……フォローできないよ……」 「ウボァー」 どこかで聞いたことのあるようなないような。情けない断末魔のような声を徐々にこもらせながら、再度ひんやりとした木製のテーブルに突っ伏す梶野さん。なんだかあまりに精神年齢が低く見えてしまって敬語を使う気が薄れていくな。 ……ん、お父さん? そういえば始め梶野さんが出てきたときも言っていたような。 「佐緒里、なんでお父さんって呼んでるんだ?」 「……ん? だってお父さんだから」 佐緒里は質問の意図がわからないといった様子で首をかしげている。 「別にお父さんじゃないだろ。居候じゃんこいつ」 「こいつぅ?」 「……この人」 「あっ、そういうことね。わたしたち家族。梶野さんは立場で言うとお父さんになるんだよ」 「……へー」 聞き流しの容量で理解。何度も疑問に対する問いかけを経験してわかったのだけど、そこから深い理由を求めようとするとさらに理解に苦しむ内容を聞かされる。だから上辺だけのな理解だけでやめておいた。 自分から質問しておいてこの対応はちょっと悪いと自負している。けど理解できる範囲にしておかないと変な会話になってしまうのもまた事実だ。 「じゃあ俺とか月奈はどうなるんだ?」 「うーん、おにいちゃ「嫌だ」ん?」 月奈が会話を打ち消すように発言し、間髪置かずに開陳。 「そんなこと実践しているのは佐緒里だけだ。わたしや梶野はやってない。佐緒里がやめる気を起こさないからわたしたちは言われてもスルーしてる」 「うぅ、みんなもやってよっ」 「なんだ佐緒里だけか。ならやらなくていいか」 「がーん……」 露骨に肩を落とす佐緒里。無理もない気がする。そりゃあ血のつながってない他人をお父さんなどと呼びたくないだろう。あれ、でも梶野さんは二人のことを娘だとか言っていたような……。都合のいいことだけは了承してるのかも。 「あ、でも便宜上そう言っておくと面倒事にならないで済むから、家にいるときは小美野を名乗っておくように」 と月奈が告げ口をした。気落ちしていた佐緒里が面を上げる。感情の起伏が激しい。 「でも、ひとつだけ提案するよっ!」 「なんだ」 「桜田君は名前で呼びましょうっ!」 「…………」 丁寧語。二重の意味でどうして、と質問せずに次の言葉を待つ。 「家族は名前で呼び合うものだからっ!」 「梶野さんだって名前で呼んでないだろ」 「いや……それはねぇ。あんまりにもかわいそうじゃん」 「かわいそうなのか? 俺は本名しらないんだけど」 「コウジっつったじゃねーかおい」 「梶野の本名はこ――むぐぐッ」 テーブルを跨いだ梶野さんの手が月奈の口を塞ぐ。月奈は空いていた手でそれを取っ払った。 「ぷはッ――このセクハラやろっ!」 スバシッコーン――! どこからともなく釘バットを取り出して梶野さんを軽快にかっ飛ばす。 やっぱり一回浮いてから落ちてるような気がするなぁ。 「ふんっ。……うんまあ、冷静に考えるとかわいそうだよな」 「そんなにか」 やっぱり佐緒里も月奈もスルーするんだあれ! 「だからお父さんはお父さんって呼んでるの。で、桜田君は名前で呼んでもオッケー?」 「ああいいよ。俺もそっちのこと名前で呼んでるわけだしな」 「うんっ。よろしくね、隆一っ!」 長い年月を経て色あせた木の板に音が吸い込まれていく。家そのものが呼吸をして、吐き出したのは朗らかな空気。 君、を飛ばして名前だけで呼んだ佐緒里の笑顔がまぶしくて―― この、まだまだ俺の知らない家族は思ったよりも素晴らしいものだと思えた。 |