昼日中の空の下。春のうららかな日差しが桜の葉を照らし、木漏れ日と一緒に桃色の花びらが地面に落ちる。俺はいまだ見慣れない景色に首を野生のカンガルーが背伸びして草原を見渡すようにあっちこっちに回していた。そんな様子を見てか微笑している月奈が瞳に映っていた。
「この町は気に入ったか?」
「さあ? 来て間もないからわかんないな」
「でも、嫌いってわけじゃないんだろう?」
「そうだな。嫌いじゃない。なんてったって都会より空気が澄んでる。それに高層住宅やビルで空が縁どられてない」
「なんだ、前は都会に住んでたのか?」
「都会の空気は臭いんだ。それに、や、なんでもない」
「なんだーはっきりと言えはっきりとー」
「いや、別に大したことじゃないし」
「じゃあ言え。生殺しにされるのは好きじゃないんだ」
 本当かと思いつつ、頭を掻きながら少し唸る。言うのか? 運よく女の子と一緒の家に住めるってのは男にとって嬉しいって。アホだろ。欲望丸出しの犬のようなものじゃないか。
 うーん。
「じゃあ、今からどこに行くか話してくれ」
「う、そこでその話につなげるか」
 月奈は立ち止まって、完成された石像のように動かなくなった。隠し事ばかりしてるからこうなるんだ、コノヤロ。
耳を澄まさないと聞こえないほど小さい音。遠くで地面をかみ砕くように走る車のエンジンが震える音が、折り重なるように無言の時間を埋めていく。時計の針が一周するくらいの時間が経ったあと、月奈はこちらを向いて
「わかった言う」
あらかじめ書き留めてあった文章をそのまま音読するかのように、一度も詰まらずに言った。
「今から食料品の買い出しに行く。お前にはその荷物持ちになってほしいから来てもらった。これはもともと佐緒里から頼まれていたことで、お前が来る必要はなかったんだけど、町並みに早く慣れたほうがいいだろうからという理由もあるんだけどな」
「そんな隠さなくてもいいことをどうして守り通していたんだお前……」
「なんか面白くなるかもしれないから。あと秘密だらけの女の子ってミステリアスでいいと思わないか?」
 わけがわからん……。
だんだん月奈の行動原理がわかってきた気がする。
「それよりわたしは言ったんだから隆一もだぞ」
 やっぱりそう来るか。
「言いたくない」
「言わないとわたしはてこでも動かない」
 ふわついた口調が言い訳するための外堀を確実に埋めていくように続けざまに言う。「あーあ、買わなかったら佐緒里が二度手間で行かなければいけないんだろうなかわいそうだなぁ」
「でもそれは俺のせいじゃないくて月奈のせいだろ」
「いや、隆一のせいだな」
「そう言うなら俺ら二人のせいってことだな。お前は二人揃って佐緒里を悲しませたいのか?」
なんか自分で言ってて意地汚い言い訳だなこれ。
「むー。ずるいじゃないかそんなの」
 まったく、と大きなため息。
「わかった行こう。どうせたいしたことじゃないだろうし」
 酷いことをさりげに言われた気がしたけど沈黙を保っておいた。
 月奈が道案内をする形で並んで歩く。次を右、という簡潔な指示に従い右折。少し勾配のある坂道を下った先の散髪屋、銀行、歯科医院を横に通り過ぎる。その先にある薄暗い駄菓子屋らしき店で金髪の男が壁に背中を預けている。どこか見知った面影があった。あれは誰だろう。そのままの歩幅でその男との距離が縮まっていく。
 月奈のほうは眉を潜めてその男を凝視する。深い緑の髪が小さく跳ね上がってそして、何かを理解したのか、ぱっと丸い目になるとその男に向かって声をかけた。
「おい、夕」
 男に反応はない。声に気付いていないようだった。月奈が近付いて目の前に立つ。男は月奈のことを認識して、つぶりをあげた。
 もし月奈が「へい夕」と言ったら「Hey you」になるのかも。じゃあ「おい夕」だったら「Oh,you」って聞こえるわけで……お、湯? って、ああもうだめだこういうしょうもないネタは。
頭を振って思考をリセットする。
「月奈? 奇遇じゃん」
「こんなところでどうしたんだ」
「空に……思いを馳せてたんだ」
「ああ、殴りたいくらいに気持ち悪いぞこいつ」
 どうしよう。また変なヤツだ……しかもやっぱり見たことあるぞこいつ。
 自分の記憶を探ってこいつが誰かっていうことはわかりそうなんだけど、頭のどこかがその答えを拒否していて知らない人と扱いたい感情が強くなっている。そんな気がする。
「そっちのヤツは――ん?」
 俺と目を合わせるや否や、男はさっきの月奈と同じ表情をして近寄り、遠慮のえの字も持たずにじろじろと観察する。
「あんた、どーっかで見た覚えがあるなぁ」
「実は俺も覚えがあるんだけど、まあ気のせいだろ」
 というか気のせいにしてほしい。転校した先で地元のヤツと会ってしまうなんて、最悪だ。俺はそれを避けるためにここまで来たのだというのに。
「あーそうかっ。同中か。ええっと……」
 やばいやばいやばい。名前なら好きなだけ晒せばいいから上から下まで言うのを止めろと言いたい。けど指摘すれば月奈に怪しまれる
焦燥感が体じゅうの熱を奪い取り、嫌な冷たさが背中を伝っていく。
「WS:busterUだっけ?」
 予想外のボケが来た!
「人間じゃないよな!」
「あれ? 違うの」
「あったりまえだろ!」
「そっか」
あったりまえの〜前田さん〜、と唇からわずかにこぼれる程度で歌う男。だれだよ前田さんて。
「じゃあ、シヴァってやつ」
「絶対俺の名前じゃないだろうけど、なんだそれは」
「どっかの宗教の破壊神」
「よりにもよって破壊神!」
「それじゃあシャ○」
「○ャアって言いたいんだろうけど、伏字の部分を変えてQをつけたら別の何かになるよなってそうじゃなくて!」
 焦りも不安も吹っ飛んで、肩に疲れがのっかかっる。始めて梶野さんと対話したときと同じような重さだなこれは。
「……わざとやってるだろ」
「まあねえ」
「――二人とも、すごい仲いいな」
「どこがだっ」
「いや、久しぶりに会ったみたいだが、そこまで会話のテンポがいいんだし、もういっそ漫才でもやれるんじゃないか?」
「まっさか」
 男は肩をすくめてわざとらしく鼻で笑った。
「……で、俺の名前は思い出したか」
「隆一でしょ」
 即答だった。わかってないフリをしていたのか、という決めつけが脳裏をよぎる。
 だけどこいつ、こんなに饒舌に話す奴だったか?
 夕は俺が転校する前に住んでた都市の中学にいたクラスメイトだ。こいつは学校で、いやこの地域一帯で随一の有名人だった。素行が常に奇異で目立つのとは違う。何もしないという点で有名だった。生きる上での必要最低限の発言しかしないので友達はいない。普段から何もしないで、陰性で根の暗い性格かと思われていたころ、突然授業中に席を立ち、堂々と教室から退出した。教師からの罵詈雑言なんて一切無視。無気力なヤツかと思いきや体育祭のクラス対抗リレーでは隠然たる力でビリだった順位から四人をごぼう抜きにしてトップに躍り出るという偉業を達成した。それについて夕本人は全く理由を述べなかったけれど、俺が思うにはただの気まぐれだったのだろう。そんな奇行が目につく夕は顔立ちから背格好にかけて雑誌に出てくるモデルのように整っていて、背丈は俺とそんなにかわらないものの顔の輪郭は小さく足は長くて、クラスの中心的存在になった男や女よりよっぽど魅力があった。髪を金髪に染めて、なぜか三つ編みした髪を肩に垂らしてるのだけど、それがびっくりするほど似合っていた。ちなみに人づてできいた話だが入学当時は週に三度女性に告白されたという偉業もあるらしい。そのルックスに見惚れたんだろう。だが夕はそれを面倒くさいの一言でぴしゃりと一蹴していた。もちろん美人だろうとなんだろうと。告白された女子が泣いていてもまったく表情を変えないその自分勝手さから、入学数週間経過で孤立して最後まで謎の人物だったという印象しかない。
 そんな性格をしているのが夕だった、はず。今目の前にいる夕とは微塵も一致しない性格だった。だから夕が普通に月奈と会話をしていることはとても不可思議なことに思えても仕方がなかった。また、他人に一切の興味がない夕が俺のことを覚えているのも驚きだった。
「二人とも付き合ってるの?」
「「違う」」
「うわっ、ハモってるじゃん」
「いや関係ないし」
「そうだそうだ。ハモるのが付き合ってること証拠ってわけじゃないだろ」
「わーぉ。意見まで一致してるね」
「それはこじつけって言わないかっ」
 拒否しなかったら付き合ってることになるんだし。
 閑話休題。
「それにしても、中学の頃と全然キャラが違うんじゃないか?」
「そう?」
「そんな口数多くないだろ。容姿だけが似てる別人かと思ったぞ」
「そうだっけ」
 夕は物思いにふけて、顎を少し上げて空を仰視する。素振りだけで何も考えてないんじゃないか?
「最近、会話をしないと世の中やっていけないことに気付いてさ、ちょっと口数増やしてみたんだ……」
「物思いにふけてるみたいで、ちょっとカッコいいこと言ってるように見えて、すごくアホらしいからなそのセリフ」
「うーん、俺的にはけっこうアリなんだけどなぁ」
「……そう思えるほうが不思議だ」
「あ、褒めてる? どうもどうも」
 呆れ混じりの溜息。月奈と同じようにこいつにも正論は通じないんだろうな。この町に来てからまともなのは佐緒里くらいなもんだ。なんかもう、数分会話しただけで出てくるこの脱力感はなんなんだ。
「ていうかさ、さっき聞き損ねたけど二人揃って何しに行くのさ」
「買出し」
「なんの?」
「食べ物だ」
「……お前らってどういう関係なのさ?」
 やばい。そりゃ出会って間もない男女が連れ添って食料品の買い出しに行くなら、そうなった経緯と関係が気になるのは当然だ。でも、できる限り俺と月奈が同じ屋根の下で生活している関係だってことは知られないほうがいい。あらぬ誤解が世間を通じて波紋のように広がることで、ここに居づらくなってしまうかもしれないから。
 言い訳を考える。
「ああ、親の親戚の子らしくてな。昔からちょっとした知り合いなんだ」
「え、あーそう、そう」
 とっさのことで反応がワンテンポ遅れたが、月奈も状況を酌んで話を合わせている。けどなんだその棒読み。
「いとことかはとこみたいなもん?」
「あーそんなかんじ。ん、そろそろタイムセールが始まる時間だ。急がないと」
「ありゃ、そーなの」
「ああ、悪いな。んじゃ、またな」
「また明日〜」
 手を少し振って挨拶もそこそこに、アスファルトを蹴るようにして足早にここから離れた。月奈も俺に続いて横で歩く。十字路を右折したときに夕のことを何気なく確認したら、すでに彼の姿は見えなくなっていた。
 さっきの言葉が頭の中で繰り返されていた。
 また明日。
 ……明日? いやまさかなぁ。
 
 
☪ฺ

 
 
「なんとなく俺の呼ばれた理由がわかった」
 町一番の規模を誇るこのお店の名前はリンキンコーンと言うらしい。授業開始のチャイムみたいだキンコンカーン。あと、お酒の名前にもなりそう。店内の広さを上回るであろう敷地の地上駐車場。休日なのに駐車場が車で埋まる気配が微塵も見受けられない。それでも八割がた埋まっているのだから、結構人気のある商店なんだろう。中もそれなりに充実してたし個人経営の店舗も二件あった。
 ちなみにもう買物は済ませている。その証拠に俺の右肩には重い重い米の詰まった十キロの袋がある。買ったものはそんなに多くない。月奈のほうは片手で振り回せるほど軽い荷物がトートバッグの中に入っているだけだし。
「荷物持ちってこういうことか……」
 手が足りないって意味じゃなくて、重いものを俺に持たせて楽しようってことかよ。米袋10キロって結構重い。
「うん。ちょうど米を切らしちゃったと佐緒里が言っていて、梶野に買ってもらおうとしたけど今日は仕事のようだから、自分で行こうと思ったんだ。そこで、ちょうど男手も増えたことを考えて隆一に頼んでみた。いやだったか?」
「いや、住まわせてもらってる身なんだから文句は言わないけどな。でも、これもだけどなんで隠したんだ?」 
「米を持ってほしいとか言ったら面倒くさがるかもしれないから」
「……いや、そんなこと言わないぞ俺は」
「そうなのか? 最近の男子は軟弱なのが多いから、やるとしても嫌々やるのが多そうだと思っていたが」
 わたしも嫌そうな顔を見ると気が滅入るしな、と月奈は付け足す。
 春先の強めな風が服の端をなびかせて、米を入れたビニール袋に何度もあたる音が聞こえる。
「嫌々やることもあるだろうけど、俺は頼まれれば大抵のことはすると思うぞ?」
 やっぱり住まわせてもらっているわけだし。
「そうか。ありがとう」
 というか、女の子に重荷を持たせて横を歩く男の図なんて嫌だというのが本音だったりする。
 卵とパンとその他もろもろ軽い物が入ったトートバッグを縦に振りながら歩く月奈。横を走る車のタイヤが地面を抉って乾いた音を立てる。まるでかみ合わない歯車が空回りしているような印象を受ける。
「そういえばさ」
「ん?」
「佐緒里と月奈の両親ってどうしてるんだ?」
「死んじゃったよ」
「あーそうなのか。なるほど」
 やっぱりな。家族を増やしたいと佐緒里が言っていたのはそういうところからもきているんだろう。
「……驚かないし落ち込みも謝りもしないんだな」
「だって、そっちだって親が亡くなったことをいちいち謝られたら気が滅入るだろ?」
「まあ、たしかに」
「どうしても聞いて答えを知っとかなきゃいけない疑問だしな」
 反芻すると、でもやっぱりあまり踏み入れちゃいけないところかもしれないなとも思った。けど聞かないと俺の気が済まないのも事実だった。
 月奈は隣で少し上を向いて屈託のなく声をあげて笑っている。
「お前面白いな」
「そうか?」
「うん、考え方がほかの奴と違っている」
「どんなふうにだよ」
「普通のヤツだったらあそこで、そんなこと聞いてごめんなさいって言うんだ」
 うんうん、と腕を組んで二度うなずく。
「でも、そんなことされると死んでしまったわたしの母と父が哀れに思われているじゃないか。隆一もそう思わないか?」
「……別に?」
 それは親が憐憫をはらんだ言葉で示されるのを許したくない人の意見だ。俺は父親がどれだけ誹謗中傷を受けようともかまわないし、むしろざまあみろと腹を抱えて指を向けるだろう。茨の棘にからめとられて全身に切り傷を生やす体は父親であって、俺ではない。俺の家族がああだこうだと言われているんだろうけど、知ったことじゃないんだ。心は一切痛まない。まあ、被害がこっちに飛び火するような状況になるのはまっぴらごめんだが。……いや違うな。それでも一つだけ許せないのはあった。
「訂正。やっぱり母親がそういうこと言われるのは俺も嫌だ」
「マザコンなのか?」
「違うっ!」
 勘違いもはなはだしいわ!
「俺の趣向は正常だっ」
「いやいや隆一の趣向なんてどうでもいいし、いちいち宣言しなくても」
「俺の尊厳に関わるじゃんっ」
 嫌だね変態だと認識されたまま生活するのは!
「大丈夫大丈夫。わかってておちょくってるから」
「厄介すぎる……」
 まあマザコンだと本気で思い違えられるよりはましだけどさぁ。
 話を変えよう。
「もう一つ聞いていいか?」
「うん。とりあえず聞くだけならいいぞ」
 言葉の調子とは裏腹に内容が冷たいな。
「昨日、佐緒里はなんであんなに必死になって俺を引き止めたかったんだ?」
 その時は月奈がこっちの都合は考えずに俺の都合だけを思慮して判断してくれ、と言われた。そして腑に落ちない感情を心の隅に安置しておくことで俺の心をくすぶり続けていた。いつまでも耐えられない。
「あー、佐緒里を泣かせかけたやつか」
「泣かせてない。泣かせかけたんだ」
「そうだったか?」
「ああ」
 そうだっけか、と月奈はわざとらしく考え込み、すぐに顔をあげて言った。
「まあいいか。とりあえずその理由だったな。わたしと佐緒里の両親が既に死んでしまっていることは言ったな」
 死、という言葉に肩がかすかに反応する。いなくなった親について軽率な質問をしたことで、なるべく相手に気を負わせることはしないけど、俺もまったくそれを気に留めていないわけではないらしい。もしかしたらそれは虚勢だったのかもしれない。気味の悪いものが心臓の横で浮遊して、異物が体の中に混入した感覚がじわりと脳に伝達する。
「失ってしまったから、それを欲しいと思っているんだ」
「親をか?」
「たぶんな。だから梶野を父親として扱ってる。あのときはちょうど父親が死んだすぐあとだったんだ」  だから寂しくなった心を埋めるために家族を増やしたかったのか? でも、だからといって簡単に前の父親を過去のものだと割り切って、今の父親役である梶野さんに心を移せるんだろうか。 「佐緒里はそんな簡単に梶野さんを父親として接したのか?」
 それじゃまるで壊れた部品を替えたみたいじゃないか。もし簡単に心を傾けられるのだとしたら、それは人としてどこかおかしくなっているとしか思えない。 「あ、なんか勘違いしているぞ隆一。初め梶野はただの居候だったんだぞ。一方的な厚意だったんだ。佐緒里は人助けが大好きだからな。でもなぜか最近、梶野をお父さんと呼ぶようになっていったんだ。わたしもびっくりしたけどな」  ……それは、佐緒里が父親を失った寂寥感を無理やりごまかすためなんだろうか。本人に問いただそうとはとても思えない。  ん、父親? 「俺は家ではどの位置づけなんだ?」
 同い年だから兄でも弟でもじゃないし、父親でさえない。イトコやハトコでは家族とは言えない。
「わたしにもよくわからない」
「月奈でもわからないのか?」
「わたしが何でも知ってると思ったら大間違いだぞ、それ」
 たしかに佐緒里のことだったら大抵のことは知ってるけどな、と付け足す。どれだけ把握しているのか聞く気にはなれなかった。
 もし、佐緒里が俺を家族の一員のどこかに位置づけるために一緒に住んで欲しい、という意味で言ったのならわかる。けど、どうやらそういう感じではないらしい。
「佐緒里って梶野さんのことは父親として呼ぶよな」
「うん」
「でも俺のことは隆一って言ってるな」
 頷く月奈。
「佐緒里は頭数をそろえるために俺を小美野家に入れただけで、別にどこかに位置づけるつもりはないんじゃないか?」
 無差別に選んだわけじゃないだろうけど、犬や猫を家族に加えるように。梶野さんはたまたま父親のポジションがちょうどよかったからそこに持っていっただけ。
 始め家に住んでいいと言われたとき、もしかしたら佐緒里の背後に黒い影が隠れているのかもしれないと考えた。佐緒里たちには何の利もないからだ。ましてや俺は佐緒里と同い年の男。梶野さんという例があったとしても、佐緒里たちが危惧しなければいけないところはいくらでもあるはず。容易に赤の他人である俺を住まわせるべきではないのが当たり前の考え方だった。
 もちろん、今はそんな疑いは捨てている。
出会ったばかりの人と親身に接してくれる佐緒里に邪気はない。むしろ聖母のような優しさが彼女の挙動を作り上げているんだろう。
 佐緒里にとっての利は、家族が増えることそのものだったのかもしれない。
……だとしても、それは心は寛大すぎるために注意力散漫で、世間を深く知らないところもありそうな気がするけど。
「つまり、あまり深く考えてないと?」 「端的に言えばそんなかんじだろ」
「あー、じゃあ梶野を拾ったときもそんな感じだったのかもな。ただ単に家族として加えたかっただけで、それがたまたま父親っぽかったからお父さんと呼んでるだけなのかも」
「……俺は梶野さんが加わったときの経緯をまったく知らないからなんとも言えないけどな」
「なんだ、その経緯を聞きたいのか?」
 月奈が下から覗き込むような形で聞いてくる。丸い瞳が俺の足先から頭までそっと撫でて、その中心にある白光と黒曜石のような黒目に俺の顔が映って固定される。
「無理にとはいわないけど、できたら」
 拾ったってフレーズがとても気になるし。
「朝起きたら家の前で倒れてたから拾った、以上」
「――は?」
 なにその道端で捨てられていた猫を拾って家で飼うことになりました、みたいな説明。でもそれはそれとして思考の端によけて、ついばむように質問を投げかける。
「ええっと……ここから踏み込んで聞いたらなにかあるのか?」
「あるぞ。そのあと家に運んだ梶野の体調を回復させて、行くあてがないという梶野のぼやきを聞いた佐緒里は目を輝かせてこの家で暮らせばどうだと提案したんだ」
「あれ? それってほとんど俺と変わらなくない?」
「うん? あ、ほんとだ」
梶野さんが佐緒里に居候させてもらっている雰囲気はあったから、梶野さんは部屋を提供してもらっているんだろうなと、そこはかとなく気づいてはいたけど……大のおとなが女子高生に寝床を賃貸してもらっている状況っていうのはちょっとアレなんじゃないだろうか。なんていうか、ヒモっぽい。俺も人のこと言えないけどさ。前の話と統合すると、佐緒里が一緒に住んで欲しいと頼み込んだ結果が梶野さんを佐緒里家にとどまらせたんだろう。俺も昨日、同じように懇願されて断れなかったのだから、梶野さんが拒絶しきれずに首を縦に振ってしまうのも納得できる。けど傍から見たら収入のある大人が赤の他人の家に住まわせてもらっているわけで。
 これは同族嫌悪というやつだろうか。
 いや、嫌悪という焼けつく球体の形をした何かが胸の奥でうごめくような煩わしさは感じないからそれは見当外れだ。あえて明言するならば、佐緒里に巻き込まれてしまった梶野さんに同情の念を寄せているというほうが近いのかもしれない。
 肺の中心から末端までいきわたっている酸素すべて吐き出すほど大きなため息。考えるのを止めて地面に当たっていた視線を上げると、月奈が何かをしでかしそうな気配が感じとれてしまった。
「いい事を教えてやろう」
 すごい上から目線。まあ俺より身長低いけど。ああ、目線の話じゃないことくらいわかってるから。誰に言い訳してるかは知らないけどな。
月奈は人差し指をピンと立てて、先っぽをくるくると回す。軽快な足取りで胸弾むような勢いをつけて歩く。
「わたしは佐緒里が大好きだ」
「まあ、そうだわな。嫌いだったらそんな仲良くしてないだろうし」
「うん? なんか反応が薄めだ」
 うーん、と言って月奈は指を反らして顎にあてる仕草をする。少し眉をひそめ、次にこめかみをとんとんと人差し指でたたいた。首をややかしげてそれに気を取られたのか、歩幅が縮む。瞬く間に俺のほうに向きなおり、そして颯爽と宣言した。
「わたしは! 佐緒里に! ラヴしている!」
「……いや、英語で言っても意味全く同じだし。そんなネイティブっぽい発音されても何も変わらないし」
 近くを走る電車が線路を踏みつけて轟音と共に進む音がむなしく響く。
「なっ、もしかして、いや、もしかしなくても隆一は鈍感なのか?」
「何の話だよ」
 おまえが佐緒里を好きなのはわかってるって。
 月奈の表情は驚嘆から落胆へと変わっていって、はああ、と一生分の幸福を逃がしてしまうような嘆息を長々と吐いた。
「かのツクヨミも呆れてさじを投げるほど鈍い隆一のために、わかりやすく言ってやろう」
 そして間髪入れず、言った。
「わたしは、佐緒里と結婚したいと思う」
 二人の間だけで数秒の沈黙が漂う。
 月奈の語意を脳が一瞬だけ理解することを拒否したが、時間がたつにつれてまざまざと月奈の言葉の本意が水の底へと沈んで、やがて理解の漂着へとたどり着いた。





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