は? 今なんて言った? 佐緒里と結婚したい? いや、女と女だろ。法律的にできないだろ。愛に法の壁なんて関係ないとか言う詩人もいそうだけどさ。ん、実は佐緒里か月奈のどっちかが、容姿は女の子に見える男とかそうなのか。そうかそうか。そんなはずないだろっ。その考えは二人にすごく失礼だっ。じゃあ……あ、わかったぞ。実は法律が最近改正されてそういうこともできるようになったんだ。そうだそうだ。そんなはずないだろっ。改正するなら法律じゃなくて憲法だしっ。じゃあ……あれか、同性で結婚できるような国に逃避行まがいみたいなことするのか。
 
 とまあ、頭の上で浮かんでいる際限なき妄想を潰して別の妄想を立てつつもまたそれを潰していた。これは何度も起き上がるだるま人形を倒し続けるようなことだろうか。あほらしい。
 月奈はだいぶ間隙をおいた後、俺が狼狽したことを見計らったかのように言った。
「――くらい好きだ」
「な、なんだよそれ」
 まったく、不自然に間を空けるなよ。
「ほら行こう。もたもたしてると置いてくぞ」
 すたこらさっさと前を歩く月奈。俺をいじり倒して、してやったりという表情でもしているのだろうか。俺からの言及を心半ばで恐れて、距離をとっているのだろうか。まあ前者だろうな。まあ、呆れて何も真意を確かめる気にならないけど。
 月奈の言い方からして、佐緒里さえよければ、たとえ女だったとしても求婚する勢いだったのかもしれない。愛情というよりは恋慕に近いか。でも、これ以上考察するのはよそう。知らなくてもいい世界もある。触らぬ神に祟りなし。億劫だし。
 月奈の後ろに垂らした深緑の髪が左右にはねる。生まれたての子犬が懸命に歩いているかのようにぴょこぴょこと動いていた。毛並は神様が一本一本丁寧に編んだかのような美しさで、日光の差し込む具合によってキューティクルが太陽に負けじと輝いている時もあるのがわかった。
 それにしてもここは車の良く通るところだ。この前は深夜帯だったからあまり考えなかったけれど、左右に一車線だけしかない直線の道のくせにほぼ絶えることなく車という車が横をビュンビュンと通り抜ける。月奈と二人並んで歩いていた歩道はいつのまにか狭くなり、それは向かいから人が来ればどちらかが車道に降りなければいけないほどだ。ちなみに、昨日事故が起きた場所はもっと先。ガードレールはなく、一応歩道と車道の境界にある段差がある程度。車道の向かいにたたずむ一軒家の連なりを挟めばそこには路線が走っていて、赤いボディに身を包んだ列車が騒音を撒き散らして風を切っていく。軽自動車だったらそんなに危険ではないのだけれど、さすがにトラックが横を通るとその圧迫感に押しつぶされそうになる。雨の日、道路にできた水たまりを車が勢いよく踏めばその飛沫が簡単にこっちにかかりそうだ。
 右の肩が痺れて感覚が鈍くなってきたので、左の肩に乗せかえる。
 ここは危ない道だ、と認識した瞬間のことだった。
 俺や月奈の視界に入らない後方から迫る自転車があった。気配はほかの騒音でかき消されていたせいで、俺たちはそれに気づくことができずに真ん中を歩く。自転車は俺の真横を通り抜け、次に月奈を追い抜こうとする。その直前、月奈は卵パックの入ったトートバッグを大きい振り子のように動かした。
 そしてトートバッグの右半分と自転車の籠がうまい具合に重なり――ぶつかった。
 あまりに突飛なことだったからなのか、月奈は手にそれを手の内にとどめることができなかったらしい。月奈の右腕がなされるがままに前へ振られ、慣性の許す限りトートバッグは前に飛んでいく。それが軽い山なりの軌道を描いて地面にすべりこんだ。嫌なものを踏み潰した音を始まりにして、乾いた砂と擦り合わせた音が続く。空気が凍りつく。事の顛末を脳内の机に漂着させるのに少し時間がかかった。クリーム色のトートバッグから丸いシミが浮かんでくる。その部分だけ色濃くなっていて、それはどうしてかというと
「た、卵がっ!」
 卵が割れて、プラスチック製のケースから中身が漏れ出しているからで相違なかった。
 月奈は地面に転がって汚れのついたトートバッグにすぐ駆け寄って拾い上げる。中を確認して濡れた卵パックを取り出す様子を見て、状況がわかってくる。
「あ、あの、大丈夫?」
 今更になって、トートバッグに衝突した細身の男性が申し訳なさそうに駆け寄ってきたようだ。月奈は意識して大きく息を吐き、ぬらりと威圧的に顔を上げて骨の細そうな男をにらみつける。
「うっ……」
 男はたじろいで一歩あとずさる。月奈の肩はおののき、その輪郭から怒気が見て取れた。
 このままじゃ危険なので口をはさむ。
「なあ月奈、落ちつけ」「にゃろう」
 はい?
 俺が呆けている間に月奈は背中から釘バットを取り出す。
「それはやめろっ」「ぶっ飛ばす!」
 瞬間、地面を強く蹴る音とともに月奈が走り出そうとする。靴底から火花が散りそうなほど強い意気だった。かろうじて月奈の服を引っつかんでこっちに引き寄せ、両脇に腕を回して動きを止めた。米袋は重力のままに地面へ落ちる。袋が破れてないといいのだけれどと懸念した。
「うーがー! はなせー!」
「あぶなっ!」
 ぶんぶんとあちこちに釘バットを振り回す月奈。かすっただけで確実に焼けるような痛みが生まれるそうだというのは、昨日の梶野さんから容易に予想がついた。あぶっ、あぶなっ。
「あ、あの、すみませんでしたっ!」
 男がものすごい勢いで頭を下げる。トートバッグにできた染みと無造作に置かれた卵パックの現状を見て何が起きたか悟ったんだろう。俺たちの行動の間にはいりずらくて今まで黙っていたのかもしれないけど。
「どうどう」
「フーッ……! フーッ……!」
 怒った猫みたいだな。そんなのは見たことないけど。しばらくこのままの態勢をしていたら、ようやっと月奈は心の落ち着きを取り戻したらしく、形だけでも冷静に息をついていた。その様子を確認してから脇に挟まれた腕を引き抜く。
「おい」
「な、なんでしょうかっ」
 ビクビク怯えているよなぁ。たぶんあっちのほうが年上だろうに。ああでも月奈の年は知らないから一概に年上とは言えないか。一応高校生だってのはわかってるんだけど。
「お前じゃない。隆一、どうするこれ」 
「あ、俺? どうもこうも買いなおすしかないだろ」
「やっぱりそうか」
 めんどうだなったく。二度手間かよ。
「あの……卵が割れたんですよね?」
「うん? ああ、そうですよ」 「怪我とかはしてないですか?」 「俺は大丈夫。月奈は?」
「ちょっと腕がじんじんする」
 それは筋肉が引っ張られてびっくりしたからだな。我慢しろ。
「特に怪我してないみたいです」
「ああ、それはよかった。あの、もしよければですが、卵のほう弁償させてもらえませんか?」
「え、いいですよそんな」
「いえ、払わせてください」
 ずずい、と強く脅迫じみた勢いで攻め寄る男の人。まあここで払わなかったら俺が無理にでも払わせるけど。
「そうだそうだ払えー」
「おまえってやつは……何をそんなに怒ってるんだ?」
 たしかにあんなことがあったら怒るのも仕方ないけど、そんな子供みたいな怒り方しなくても。
「これ、佐緒里が手作りした手提げかばん」
 あえて、だからどうしたんだとは聞かなかった。多分、月奈の怒りの沸点を超えさせるにはそれで十分なんだろう。佐緒里の作ってくれたものが汚された。それだけ。中毒的な佐緒里至上主義じゃないのかと錯覚してしまう。錯覚じゃないかもしれないけど。
「では、ダッシュで買ってきますね」
 細身の男は既に自転車にまたがって、ものすごい加速をつけて風の弊害を一身に受けながら去って行った。気弱なんだか行動派なんだかよくわからない気質だ。
 俺たちはそれをぽかーん、と鳩が豆鉄砲食らったかのような顔で見ていた。
 そして我に返ると、
「これ、もしかして逃げられたんじゃないか?」
 という結論に至った。もちろん冗談めかして言っただけだけど、本当に逃げていないとは断言できなかった。
「さあ? 十分でも待ってみて、そう考えるのはそれからでも遅くないだろう」
「だな」
 もう月奈の気持ちは落ち着きを取り戻したみたいだ。億劫そうに待ちぼうけ食らってますって表情をしている。
 とりあえず、米袋を持っていたうずくような痺れのある肩を休ませることにした。
 そして数分後、思ったよりも早く細身の男が戻ってきた。肩で息をして髪の毛は向かい風に弄ばれてぐしゃぐしゃ。なんかここまでさせたんだと思うと軽い罪悪感が芽生えてくる。
「はぁ、はぁ、これで、いいで、すか」
 ずい、と重さで下だけが膨れた袋が差し出される。それを月奈が手に取り、中身をと確かめる。
「うん、いいぞ。……っていうかこれあそこで一番高価な卵じゃないか」
 月奈の背中にまわって袋の中を見る。本当だ。卵が一個一個パックに入ってる。それが十二個分だから、すごく金額は高くつきそうだ。三桁は優に上回ってるだろう。
「これ、カツアゲみたいになってないか?」
「俺もそう思った」
 軽く千円は超えてそうだ。差額を払わないといけないのかも。
「いやいや滅相もない!」
 言い方硬いな。
「これは僕からのお詫びですよ」
「でもこれ、けっこう高いものだろう」
「それがお詫びってことです」
 細身の男、いやもう青年でいいか。青年は始め出くわした頃は怯えていたが、もっか表になっているコインを裏に返したかのように、とても気持ちのいい笑顔をしていた。どうやら本当に俺たちに差額を払わせるつもりはないらしい。悪意で無理やり押し付けられた感じがして文句の一つでも言うつもりだったのだけど、すっかりそのタイミングももう過ぎてしまった。
「なんか悪いな。でもありがとう」
「いやいや、こちらこそ」
「うん、ありがとうだ」
 なんかすごい円滑に和解が進んだなぁ。
「で、折り入ってお願いがあるのですが……」
「おい、それが狙いか」
 おかげで抜けてるやつなのか、抜け目のないやつなのかわからなくなったぞ。
「あははは……でも、ほとんど手間はとらせませんから」
「なんだ? 言ってみろ。曲りなりだが、お礼だ。できるかぎりのことはするぞ」
「あの、小美野さんにこの、ぼくがお詫びをしたんだってことを言ってほしいんだけど、お願いできませんか?」
「ああ、なるほど。うーん……でも一応恩義には報いないといけないしな。くぅ、仕方ないか」
 恩義と言うよりは押し付けなのでは、という意見は野暮だろうな。
 というか、あれ?
「月奈、この人と知り合いなのか?」
「いや、わたしは知らない」
「うぅ」
 あ、ダメージ受けてる。
「ぼ、僕が知ってるだけで月奈様は知らないみたいですね」
「ルナサマ?」
「おいっ、その呼び方は止めろって言っただろっ」
「ええ、いいじゃないですか。みんなそう言ってますよ?」
「それでも止めろっ。なんでわたしが様付けで呼ばれないといけないんだっ」
「あはは。でも、月奈様って思ったより接しやすいんですね。よく男をのしてる姿を見かけるからもっと怖い人だと思ってました」
 のしてる? 怖い?
「月奈、お前学校でなにやってんだよ」
「べ、別に変なことはしてない」
「俺はお前が変なことをしてるんじゃないかと疑ってるから訊いたんじゃないんだけど」
「うっ」
 それじゃあ変なことしてますって言ってるようなもんだよな。犯人が真っ先に「私は犯人じゃない!」って言ってるのと同じような気がする。
「まあ、どうせ明日以降でわかるだろうからいいけどな」
 月奈は苦いものを噛みしめているような顔つきになっていた。
 閑話休題。
「それで、小美野さんに話しといてくれますか?」
「まあ、恩を仇で返すのも忍びないしな」
「それじゃあいいんですか!?」
「うん佐緒里にちゃんと伝えておこう」
「いやったぁ! これで僕、あと三年は生きられます!」
 ちょっと待て。それだけで三年生きれるってどういうことだ! 意味を反転させればそれがないと三年は生きられないってことじゃないか。正直、気持ち悪くて一歩引けるっ。良心的な青年かと思ってきた反面、今この言葉のせいで俺の中でこいつに対する奇人への疑いの度合いが跳ね上がったぞ。
 そりゃあもう振り切れた計測器の針のように。
 ちなみに青年は目ん玉に星がついているかのようにキラキラと輝いていましたとも。
「じゃ、これで僕は行きますね! やー、月奈様もたまには粋なことしてくれる。ありがとうございます!」
 青年は自転車にまたがり、片腕を天に振り上げてとても意気揚々として、もと来た道の反対へと去って行った。
 そういえばあの青年。月奈のこと知ってたんだよな。となるとさっきの小美野さんってのは佐緒里のことか。
「で、あいつとはどういう知り合いなんだ?」
「知らないって言っただろ。というか男なんてほとんど知らないし、知りたくもない」
 そういえば男という生き物を目の敵にしているんだっけか。いや、この前佐緒里が言っていたことはそれだったけれど、月奈の言い分は佐緒里に集う男どもが嫌いだと言っていたな。ちなみに、俺の中のイメージでは極上の餌に無心に群がる犬たちになっている。
「じゃあ俺のことは?」
「別にどうとも思ってないぞ」
「ぞんざいな扱いだなぁ」
「逆にわたしから訊くがお前からわたしへの印象はどうなんだ?」
 そういうことを一切の逡巡なく訊く根性がすごいな、という言葉は喉元にとどめておく。
「暴力女」
「む、否定はできないけど女の子にそーゆーこと言うのか隆一は」
「じゃあなんて言ってほしいんだ」
 こういうとき相手が気難しい女の子だったら、自分で考えてよとか言われそうなものじゃないのか、と反射的に思いついて自分の発言にほぞを噛んだ。
 けど、どうやら月奈はそういう女の子じゃないらしい。
「わたしの事を女の子らしい女の子だと言ってほしい」
「はあ?」
「わたしは女の子だ。あどけなくて、かわいい女の子」
 まるで自分に言い聞かせるかのように月奈は途切れ途切れに言葉をつむぐ。
「菜の花畑で、新緑の森で、鳥と戯れるように、踊ってる子」
 言い聞かせるという程度を超えて、暗示のようになってきた。
 そして言い終わると、少し潤みを含んだ目がこちらを覗き込むような形で月奈は俺のほうを真剣に見ていた。
「そんな子だと言ってくれるとうれしい」
 控えめな懇願だった。こいつが何を考えているのか時々わからなくなる。出会って数日でわかることなんてほとんどないけれど、あらかたわかったつもりではいた。佐緒里のために行動するのが全てだと決め付けていた。でもこの懇願は違う。意図が汲み取れない。何を意図に言ってるのか。黙っていればそりゃ可憐な少女だと言えるけど、振る舞いは暴虐武人のそれだ。
 だけど、それを言えば月奈は怒るより、落ち込んでしまうだろう。
「そんな子か。おまえは少なくともそうなろうと努力してるとおもうよ」
 釘バットの印象が強いだけで、本質はそのへんにいる普通の女の子なのかもしれない、そうじゃないかと考えを改めることにした。
「よいしょっと」  月奈は俺が運んでいた米袋をお腹の前で抱えるようにしていた。 「持ってくれるのか?」 「うん。大体半分くらいまで隆一は運んでくれたからな。あとはわたしが持っていく」 「結構重いんだけど、大丈夫なのか?」 「女の子だからって力がないわけじゃないんだぞ? ――ほいっと」  月奈は片腕で米袋を下から支えるようにして持ち上げた。 「おー、すごいな」  っていうかそこまで軽々できるなら俺に持たせる意味あったのか? 「んしょっと。でもこの持ち方のほうが女の子らしいからこうする」  また両腕で抱え込むようにして持つ。女の子に重い物を持たせている男の図になったわけだけど、一応フェアに半分の距離を運んだようなので、あまり悪い気にはならなかった。  俺はトートバッグとビニール袋を持って、また二人並んで歩き出す。幅が狭くて無理やり詰め寄ってくる月奈。端でふらふらしているのが危なっかしくて、月奈を歩道の左端によけさせる。そこからしばらく進むとようやく余裕を持って二人並んで歩ける幅になった。
 春のうららかな日差しが眠気のメーターを振り切って、まぶたが細くなる。家について一段落ついたら仮眠をとろう。夕方の焼け具合に成りきれてない白く薄い膜のような空の明るさが不意にそう思わせた。
 
 
☪ฺ

 
 
 結局、家に帰っても眠りにつく気分になれずに風呂の中でほんの数分眠っただけだった。寝巻きを羽織って自室に戻ると、地面に敷かれた水色チェック模様の布団の中心に不自然な盛り上がりがあった。
 その状況を理解して少したじろいだけど、一歩引いて客観的に考えてみる。
 朝、布団は佐緒里が日なたのあるベランダに干したあと、月奈と出かける昼前に俺が三つ折にして戸棚にしまいこんだはず。それは確か。じゃあ誰かが、佐緒里あたりが敷いてくれたのか? その考えは案外はずれてないだろう。でもアレは誰だ? 
 多分、答えは出掛かっているけれど、それをわかった上で頭ごなしに否定しつづけている。氷点下になっても凍りつかない過冷却水のように形を成す直前でそれを拒んでいた。
 もぞっ、と盛り上がった掛け布団が起伏する。
 ああもうそうだ。あの中には人がいる。間違いなく人が中で丸くなっている。そのくらいいくらバカな奴でもわかるさわかってるさ。
 躊躇することなく掛け布団をどかすと、潜り込んでいた人が姿を現した。
「やっぱり月奈か……」
「くぅ。くぅ」
 案の定そこには月奈がすやすやと満足そうに、朝と同じようなくびれた横腹のちらりと見せ具合で、母胎の新生児のようにひざを抱えるようにして丸くなって寝ていた。実際は腕で膝を抱えずにその腕は枕の下に潜り込ませてある。
 さてどうしようか。とりあえず布団は占領されている。起きる気配はない。というかかなり気が引ける。だかといって担ぐ気にはなれない。仮にも女の子だ。仮じゃないけど。それに、担ぐことで起こしてしまって、朝と同じようにいたずらに身を危険に犯すのは避けたい。佐緒里に知らせて月奈を起こすのもいいのだけど、寝ている人を起こすという行為はそれだけでかなり気が引けることだ。それに起こすなら自分でやっている。
 月奈を軽く一瞥し、ため息を長々と吐く。
 とりあえずもともと持っていた寝袋があったなと思い立ち、冷え冷えとした床に広げた。中に毛布を入れてミノムシみたいになっておけば暖かく眠ることができるだろう。冬着を適当な大きさに折りたたむことで厚みをつけて、それを枕代わりにする。電球のスイッチを切って、月奈を一瞥してもう一度ため息をついた。
 なんで俺の部屋で寝てるんだろう。寝ぼけていただろうか。特別困ることもないのだけど。もともとこの部屋は誰かの部屋だったはず。その部屋に来て眠ってしまっただけじゃないかと答えのない憶測をしてみる。思い返すと今日は散々月奈に振り回されたような気がする。いや、気のせいじゃなくて本当のことだろう。あまり悪い気がしないのが不思議だ。前いたところよりは楽しい生活を送れているからだろうか。
 そういえば夕に会ったけど、特に前の町のことについては言われなかったな。あった瞬間、影となった過去が俺に追いついてきたんだと錯覚した。でも夕は俺がこの町に来たことについて話題を出すことをしなかった。もしかしたら話す間もなく会話していたせいで聞き損ねただけかもしれないけど、それでも嬉しい。あの時夕が喋ろうとしたら俺は止めるつもりだった。止めたことについて月奈は言及をするだろうから、言い逃れができたとは思えなかった。だからそのときはすごい助かった。もう、夕が察してくれていたのかどうかはどうでもよかった。とにかくまだ過去は追いついてこない。いずれ自分の中で割り切って結果を出すべき過去だけど、まだ猶予はある。そう願った。
 そして、
 忍び寄る睡魔に気づかないうちに俺は深い眠りのそこにたどり着いていた。
 
 
☪ฺ

 
 
 毛布を指先でつついて弄んだり、布団のしわの変化の具合を触って確かめたりしつつも、横目でとなりの奴が寝たかどうかの確認をする。あ、寝た。
 隆一の寝床を占拠しながら最後の決定事項としてこう結論した。
 危険は何もない。
 隆一を危険なことや面倒ごとにつき合わせて、一挙一動を確かめていた。都合よくトラブルや思わぬ邂逅に出くわすことで隆一がどう対処するか確かめることもできたのはよかった。つまりわたしは佐緒里にとって隆一が害にならない人かどうかを試していたのだ。信用してないわけではない。むしろ好意を抱いている。あ、好意といっても恋愛に関係するものじゃない。でも、万が一でも佐緒里に害となる隣人がいちゃいけない。佐緒里にとっても、隆一にとっても。
 瞳の奥底に移る青い月を思い描いて、自分に体があることを確かめるように手のひらでシーツを軽く握る。不用意に近づきすぎなければ何も起きない。だから距離をとらせる。それは佐緒里もわかっているはず。  梶野はまだ大丈夫だ。あいつの素行はあまりよくないけど、長い目で見れば思った以上に悪いやつじゃない。初めは追い出してやろうかと考えていたんだけど、出会って数ヶ月経った時にそう気づいた。
 隆一が佐緒里に害を成す奴だったなら、心を鬼にして二人の距離を離さなければならなかった。辛いけど、あらゆる手を施してでもそれだけはしなければならない。わたしはそのためにいる。わたしの存在意義は佐緒里を守るためだけにある。それは約束や義務に縛られた感情じゃなくて、今はただ単純に守りたいから。
 あと、隆一という新しい家族が増えて嬉しいのは佐緒里だけじゃない。わたしも嬉しい。佐緒里にとっての害になるとかならないとかそういう感情を引き抜いて、純粋な感情で嬉しさがあった。
 失ってしまった空間を埋めるかのよう、といったら隆一に悪いけど、別に隆一が喪ってしまった両親の代わりというわけではない。だって年も容姿も性格も違うし。隆一は隆一。隆一が入ってきた部屋がたまたまわたしの父と同じところだっただけの話で、隆一は隆一以外の何者でもない。

 佐緒里は明日になれば心を持ち直せるはずだ。見た目以上に心の芯は固い。
 さあ、次の日が楽しみだ。だから楽しい騒ぎをいっぱい起こそう。




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