朝は昨日の逆から始まった。 「おはよう隆一っ!」 「んあ……?」 四肢を動かそうとする。だけど張った何かがそれを阻害する。なんだろう。ああ、寝袋の中で眠っているからか。布が四肢の伸びを阻んでいるようだ。ゆるやかに目を開ける。月奈の顔が俺に隔たって目の前で並んでいた。 え、どうして。 一瞬胸が弾み、心からじわりと不思議な感覚が生まれた。それをすぐにすり潰す。寝袋からどうにかして腕を出し、寝袋のファスナーを下におろす。そこから這い出ると朝の純粋な空気が寝間着の隙間から入り込んで、体が新鮮な空気に影響されて微細な反応をした。 「おはよう」 「眠たそうな顔だな。朝、女の子に起こされるのは嬉しいんじゃないのか?」 「まあ」 そりゃ嬉しくないわけじゃないけど―― 「お前それ誰からの入れ知恵だよ」 「梶野に教えてもらった。こうすると男は興奮するんだぞって言ってた」 なにベタなラブコメ漫画みたいなこと教えてるんだろうあの人は。 「あのな、俺を誘惑したいのか?」 「いや、反応を見て楽しんでいただけだ」 「もし俺が襲いかかってきたらどうするつもりだったんだよ」 「コレでぶっ飛ばすだけだが」 手にはずっしりと重みのある釘バット。まあわかってたけどさ。 隣出女の子がいる状況で、起こしてもらった俺は、寝袋の中だったんだよな。微妙に風情がない気がする。 この状況、昨日俺が月奈を起こしたのと逆の状況か。 「そういえばどうして昨日は俺のベッドで寝てたんだ?」 切り出した話題に月奈はまったく表情を変えずに 「なんとなく」 「なんとなく、で男の部屋に上がりこむな」 「じゃあ、間違えた」 「じゃあってなんだよ、じゃあって」 「チッ」 たち悪っ! 「無理には聞かないけどさ、俺も寝袋なんかで寝たくないし今度からはよしてくれよ?」 「仕方ないなぁ」 突っ込まない突っ込まないと思い込ませて、畳の上で何かの抜け殻のようになっている寝袋を畳んでおく。布団と一緒に三つ折りにして部屋の隅に移す。 部屋を出る。昨日と同じように朝ご飯を食べるのでリビングに集まるというのが習慣らしい。俺に続いて月奈が部屋から吐き出された瞬間のことだった。 「あ、隆一おはよー。月奈ちゃん知らない? 部屋行ったらいなかったんだけど――って、あれ?」 「佐緒里、おはよう」 月奈が俺の背中から半身を出すようにして朝の挨拶をした。 「月奈ちゃん、隆一起こしてくれたの?」 「いや違う」 そうだと言ってくれよ。話がややこしくなるだろっ。 「いやいや、俺は月奈に起こしてもらったんだろ」 「あーそういえばそうか。でも、それだけじゃないぞ」 「うん? なにかあったの?」 「隆一と一緒に寝た」 ピシッ。く、空気が一瞬で凍りついて、すごく悪寒が漂っているんだがっ。 何を言ってるんだと非難したかったが、あまりに突拍子な事だったので反応する意識が一瞬飛んでしまっていた。 「そ、それってどういうこと?」 「初夜」 「…………」 ぷしゅー。 ああっ、佐緒里が茹で上がった赤いタコみたいな状態にっ。 「違うぞ佐緒里っ。一緒の部屋で寝ただけで、別にやましいことなんてなにもないからなっ」 っていうか佐緒里もけっこう耳年増だなっ。 「月奈もそれ言った後の自分の立場くらい考えてくれっ」 「佐緒里ってこういう話題にすごく弱いんだ。かわいいかわいい」 聞いてないし! 「ああもう、どうすりゃいいんだこれ」 「とりあえずあっち側に行った意識をこっちに持ってこないとな」 「おーい、佐緒里、戻ってこーい。」 もちろん声だけだったらさっきまでの会話で戻っているはずなわけで、効果はなかった。 両肩を掴んで揺すってみるけど、効果はなし。下手に強く揺すったせいでこっちに倒れてきてさらに状況が悪くなった。 「ど、どーすればいいんだこれ。月奈もにやにやしてないで佐緒里を助けろって」 「なんでわたしが」 「お前が原因だ」 「そんな身もふたもないこと言うのか」 「至極当然のことを言ってるんだっ!」 「ま、それもそうだな」 妙に潔く納得してちょっと待ってろ、と月奈は言って下に降りてしまった。どたばたと落ち着かない足音が家じゅうに響き渡る。少し経つと月奈は戻ってきて、手に持っていたモノを佐緒里の口に当てた。 「ワッフル?」 プレーンワッフルを佐緒里は一口食べる。意識、戻ってきてないんだよな? 「……ぁう。きゃ、隆一ごめんっ」 佐緒里が俺の胸から離れる。 「どうだ、起きたぞ」 単純だな。 「あれ、なんでわたし隆一にもたれかかってたんだっけ?」 「そりゃ月奈がしょ――」 しまった、と思って口をつぐんだ時にはもう遅かった。俺の言葉がヒントになってさっきの出来事がフラッシュバックでもしたのだろう。佐緒里はまたゆでだこ状態になって、耳たぶまで真っ赤になっていた。頭から湯気でも出てきそうだ。 「やってしまった……」 「あーあ」 結局、何度もゆでだこになって正気を取り戻すのを繰り返した佐緒里の勘違いを正して納得させたのはさらに十分後のことだった。 ☪ฺ 行ってきます、と言うことに少し照れくささを感じるのは俺だけなんだろうか。佐緒里と月奈が言っているからそれに続いただけなんだけど、二人が誰もいない家に二人が言葉を残していくのは多分、父親と母親への言葉なんだと思う。 中が空洞になっている鉄骨を重ね合わせた作りになっている軽い門を押して路上に出る。 今日は旭碧高校の始業式だ。ということは入学式は既に済んでいるんだろう。転校生の立場の俺は始業のチャイムが鳴る時間より多少早めに職員室に顔を出すようにと言われている。でも学校までの道のりは分かるにしても、職員室の場所はまったく把握してないことより、道案内をお願いするという意味で、佐緒里や月奈をも巻き込んでしまっていた。 「なんか悪いな。迷惑かけどおしだ」 「このくらいなら迷惑のうちに入らないからだいじょぶじょぶ〜」 嫌な顔一つせずにいつもより早く学校についてきてるくれる佐緒里はとても優しい気質をしている。人から頼まれるより早く自発的に部屋を家事をこなし、怒ることもなく煩わしさのかけらも見せない。その性格を佐緒里はとてもいい子だから、という言葉で片付けられるんだろうけど、小美野家の家庭環境を知った後ではそれだけじゃないように見えてくる。 ちなみに月奈と佐緒里は俺の隣で今日の午後からどういう予定にしようという話で盛り上がっている。日用品を買いに行くか、ある喫茶店の新しいデザートを食べながらずっと話しているかの二択で悩んでいるらしい。両方にすればいいんじゃないのか、と聞いてみたがどうやら日用品を売っているスーパーマーケットと例の喫茶店の位置は正反対で、両方とも歩いていくには少々骨が折れるらしい。また、スーパーマーケットには何か目的を持っていくわけではなく、ただ単に商品の物色らしいので特別用事はないらしいし。 ああ、非常に今更なことでどうしようもないのだけど、この二人はかなり美人な部類に入る。月奈の胸がおとなしいことをマイナス面で鑑みても、陶器のように白くて弾力のありそうな肌や煌々とした日の光に負けじとその存在を感じさせるツヤのあるキューティクルを持った髪。スカートの下から伸びた曲線美を感じさせる細い足は月奈の美しさを如実に無言で訴えてくる。佐緒里に至っては大きな目と長いまつげ、生き生きとしたベージュ色の肌。洗練されている普段の立ち振る舞いはお淑やかな京美人を彷彿とさせる。月奈が幻想的な美しさを持ちえているならば、佐緒里は女の子として理想的な美しさに秀でていると言うんだろうか。もちろん見た目だけでの話で、性格は加味していないけれど。 そんなこんなで会話しているうちに旭碧高校の門を横目に通り過ぎる。満開の桜並木が生徒を歓迎しているようだった。地面に散りばめられた桜色の花を踏む。昔は花びらを潰して歩くのが嫌で、なるべく避けるようにしていたけど今となってはそんなことを気にする心は消えているんだな、と感慨に浸ってみる。 ふと、嫌な波動を感じた。これは勘だ。恨みがましい思念を肌が何度も受けた。しかも一つじゃない。いくつもの負の感情を含有した視線がこちらを見ている。視線の主と目を合わせて睨んでみる。向こう側はそれに気づいて目をそらした。どうやら勘違いじゃないらしい。あと、佐緒里や月奈は関係ないようだ。何か悪いことでもしたんだろうか。 佐緒里がこっちに会話を投げかけてきた。 「この学校の外見はどう?」 「いや、初めて見たけどすごいな。本当に公立高校か?」 この界隈、というかいつも金銭面で私立より苦労しているイメージがある公立の高校は貧乏で設備が不十分で、長い年月を経た壁は変色してひび割れてそのまま放置されていたり、錆びついていて殺風景なものがほとんどだ。でも、そんな様子は一切見られない。校舎は新設のものと勘違いしてしまうし、敷地はバカみたいに広くないものの、そのへんの下手な私立高校よりは見栄えがいい。明るいクリーム色の壁や、色あせてない濃い色のコンクリート。趣向を凝らしてあるごつごつした長方形の石を積み上げた校門と、多分この学校を創設した初代校長を模した彫像と学校方針を記した岩。まあこの二つはどこにいってもあるけどな。あと、置いてある理由のわからない妙な形のした物体がちらほらある。目の前の、多分全ての生徒がここから入っていく玄関のようなところは赤褐色の塔を二つ立ててガラス張りの壁をそのつなぎに用いているような形をしていた。凝った装飾も施されている。 「ここ、私立みたいに授業料高くないよな?」 「うん、それだけだったら年に十五万もかからないよ」 「だよなぁ」 だいたい、月に2万くらいだよな。 「というかお前、この校舎が綺麗だってこと知らなくてここに転入してきたのか? 普通それが目当ての生徒ばかりなのに」 げ、いちいち鋭いな。あまり転入先の高校を選んでいられる状況じゃなかったから校舎なんてぜんぜん見てないんだよ。 「あ、いや、写真で見るのと実際に見るのって違うだろ? それでびっくりしただけだって」 「ふーん。ま、いいけどな」 「ちなみに改装したのはここ二、三年のことなんだよ」 佐緒里は呟くように続ける。 「でも、学校のどこにこんな大金あるんだろうね」 「うーん、わたしの予想だと何十年と貯めた金があると見た」 「へそくりみたいなもの?」 「たぶんな。学校側がこつこつ貯めてたんだろ」 「なんかすごい家庭的だね――って、月奈ちゃんはあっちだよ?」 玄関を通って三叉路に差し掛かる。三人揃って左に行こうとしたとき、佐緒里が右の方を指差した。 「え、なんで?」 「だって月奈ちゃんの教室あっちだよ?」 「……うん。知ってる。知ってるよ。でも……でも、佐緒里と離れたくない!」 「え、えっと、また帰りに会えるよ?」 なぜか月奈は感極まって目の端に涙を溜めている。佐緒里からは見えないだろうけど、実は握られた目薬が背後に回されていた。 「月奈はどうしたんだ?」 「ええと、いつものことなんだけど……後で説明するね」 困った感情を笑顔で誤魔化している印象を受ける表情だった。すぐ月奈に向き直る。 「……うん。ありがと。でも授業始まっちゃうよ?」 「でもっ」 悲痛な感情をいっぱいに出して引き下がらない月奈。 「うん……わかった。またな、佐緒里、わたし生きて帰ったら佐緒里と一緒にケーキ食べるんだから……!」 なんで今生の別れ風? 「う、うん。またねー」 佐緒里が手を左右に往復させてバイバイの表現をすると、月奈は名残惜しそうに何度も振り向きながら、こちら側に罪悪感を残しつつ、とぼとぼと右手の廊下を進んでいく。美麗な長髪が悲しみの尾を引くように揺れて、やがて人ごみに紛れて見えなくなった。 「で、どうして月奈はあっちに行ったんだ?」 「月奈ちゃんの教室は向こうなんだよ」 「どうして月奈の教室はあっちで、俺たちはこっちなんだ?」 「ええと、あれれ? 話、噛みあってないのかな?」 「俺もそう思う」 二人の間に沈黙の幕が下りる。俺は何も考えずに佐緒里の次の言葉を待った。 「えっと、この校舎の案内をするね。さっき月奈ちゃんが行った右手が一年生の教室と、特別教室があるところ。反対の左手には主に二年、三年生の教室」 佐緒里が指差した先をそれぞれ見てみると、人が遮蔽物になってわかりにくいけど、長い長い廊下が走るように伸びているのがなんとかわかる。 「で、月奈は一年の教室に行ったということか」 「うん」 おい、ちょっと待て。 「――月奈って、もしかして俺らと同い年じゃない?」 「え? 月奈ちゃんはわたしたちより一つ下だよ?」 な、なんだってー! ちょっとまてということは一つ下なのに月奈はあれだけ大きな態度をとってたのか。別に年齢による序列とか全然気にしないけど、その年下が俺の心を幾度となく弄んでたのかよ。なんだか複雑な気持ちになるな。 「意外だった?」 「あー、思い返すとあいつ、結構子供っぽいところあった気がするな」 「そ、それは月奈ちゃんなりの愛嬌なんだよ」 昨日の朝にその愛嬌で殴られかけたんだけどな。愛嬌で大きな青あざつくりたくないよ、俺。まあ佐緒里に言っても仕方ないけど。 「というかなんだ、新しいクラスの発表はもう済んだのか」 「うん。金曜日が全校出校日で、学校の大掃除をやってたんだよ。その日の初めにクラス発表をしてたってわけ。だからわたしたちはもうどこのクラスに行けばいいのかは知ってるよ」 「なるほどな」 どうりで毎年恒例になっているクラス発表時のざわつきがないわけだ。 「で、職員室はどこなんだ?」 「あっち。案内するよ〜」 佐緒里は右の廊下を指差す。それは月奈が泣きながら去って行ったほうだった。 「ありがとな。そういえばさ、別に月奈と同じほうの棟に入るんならなにもここで別れなくてもよかったんじゃないか?」 「――ん? あ、あああっ、本当だよ隆一っ」 いつものこととはいえ、泣かせたことには多少の引け目を感じていたんだろう。申し訳なさを形容した顔つきをしていた。 「あとで謝っとく……」 「そうしとけ」 ずいぶんと律儀だな。家族同士なんだからそのくらい笑って許してくれるだろうに。 佐緒里に寄り添うようにして、月奈の歩いて行った階段を上り、3階まで行く。上がってすぐ左の壁沿いに職員室と書かれたが横に飛び出ている。 「ここが職員室だよ」 「結構普通だな」 「隆一の前いた学校は変わってたの?」 「いやそういうわけじゃないけど、校舎があんなだったから中も変わったところがあるのかと思ってな」 「校舎はかなり新しくなったけど、変なのは玄関くらいかな。あとは普通の学校と変わらないと思うよ?」 たしかに。玄関は天井が吹き抜けのホールみたいになっている。そこは特徴的だと言えるだろう。しかしそこから先に進めば、見慣れた灰白色の壁が、驚くたびに立っていた感情の波を平らにしていた。 「じゃ、行こっか」 目の前の戸を指差して、すぐ取手に手をかける佐緒里。 「行くけど、道案内はこのへんでもういいぞ? あとは俺だけでなんとかできるから」 「そう? 無理してない?」 「そこまでなよなよしく思われてるのか俺は。心外だな」 「ええと、そういうわけじゃないけど。でもやっぱり心配だもん」 「家族だからか?」 「うん」 お前がそう思っていても、こちら側からはそう思ってないんだぞ。俺だって普通に人生を歩んでいれば、こんな境遇でもお前のことを家族と認められたのかもしれないけど、それとは違う生き方を進んでしまったこの体は家族の繋がりを許してくれないんだ。心が受け入れても、まだ体が拒否している。それがひどく悲しい。 と、長台詞を並べて佐緒里にそのことを理解させても仕方ないので適当な言葉で会話をつなげる。 「……まあ、なんにせよここまでしてくれたので十分だからさ。ありがとな、助かったよ」 「そっか。なら、わたしは戻るよ。同じクラスだったらいいね」 おう、と短い返事を返すと佐緒里は軽く手を振って、動きと一緒にスカートを翻えらせて背中を向けつつ、弾むような足取りで階段を降りて行った。 ぐっと息を止めて、胸に気合を込める。職員室へ入ることに慣れてないので変な緊張をするけど、それを押さえつけてドアの敷居を横に滑らせた。 |