「佐緒里のファンクラブというものがあってだね桜田君」 「はあ」 夕と教室に入るや否や、加宮は佐緒里と一緒にやってきて一方的に話し始めた。 「あ、先に言っておくとさおりんって学校で一番男の子から人気のある女の子なんだよ」 「そ、そうなのか?」 佐緒里の方を見ると、確認の意思を肌で感じたのかゆっくりと小さく頷いた。どうやら加宮は嘘を言ってないらしい。 「まあこのファンクラブが成り立った歴史は端折っとこうかな。面倒だし。とりあえず彼らはさおりんを守るためにいるわけ。つまりは親衛隊」 「どんなやつから守るんだ?」 「直球で言うと、さおりんを彼女にしようと狙っている男」 「うわぁ……って、俺はそんなことしてないぞ?」 「またまたー、そんなこと言ってその実さおりんとお近づきになりたんじゃ?」 「いや、ホントにそれはない。絶対に、ない」 今の俺に人を好きになる余裕はないから。 「そ、そこまで言わなくてもっ。さおりんだって悲しむよ?」 佐緒里の方を見ると、 「…………」 そこには黙りこくって俯いた佐緒里の姿があった。 前髪が窓枠から垂れ下がっているブラインドみたいになって表情が読みがたい。 「佐緒里?」 下から覗き込もうとするけれど、思ったより身長差があって上手く顔つきがうかがい知れない。やがて佐緒里は目元を指先で撫でる仕草を始めた。 それはつまり、 「な、泣くな!」 涙を流している証拠だった。 「やーい、泣かしたー」 夕がはやし立てる。 「な、なんで泣くっ?」 「だ、だって、やっと家族、増えたのに、隆一が、わたしのこと、嫌いって、言うか、らっ」 涙ぐんだ、くぐもった声で佐緒里が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。 「そ、そんなこと言ったか?」 自分の発言を反芻する。嫌いだと言ってないはず。 ――あ、もしかして 「あー、多分隆一が佐緒里のこと好きじゃないって言ったからじゃない?」 考えると同時に夕が俺と同じ意見を口に出していた。 「なるほど。あのな、佐緒里」 「え、えうっ?」 涙声の返答。 「えーと、あのな。別に佐緒里のことが嫌いってわけじゃなくて、むしろ好きな方っていうかなんていうか……えっと……なんて言うんだ、これ?」 加宮が横から割り込むように言う。 「好きって言えばいいと思うよー!」 「だからそれは違……じゃなくて、あーなんだ。うん、俺は佐緒里のことを好きでも嫌いでもない。どっちかと言えば好印象だ」 「ほんとう?」 「嘘は使うのは苦手だ」 「隆一はわたしのこと、嫌いじゃない?」 「おう」 その言葉を聞いた佐緒里はコマ送りのように慎重な動きで顔を上げた。目の下が少し赤くなっていて、涙の跡が残っていた。でも、 「――ありがとっ」 まだ少し潤んだままの瞳で俺の顔を見て、両頬を緩ませながら口の両端を優しく上げて、佐緒里はとても柔らかい微笑みを浮かべていた。 で、なんかしんみりしてしまったわけだけど、 「肝心のファンクラブのことを聴き損ねてるんだが」 「ん? あーほんとうだ。ってまだなんか言うことあった?」 「今後の傾向と対策について」 「おおー! なんかそれ、参考書の帯に書いてある煽り文句みたいっ!」 今年度の対策はカンペキ! 難関大学合格ほぼ確実! こんなかんじだろうか。絶対とは言わずにほぼ、という風に会社側の退路を確保しているあたりが上手く出来てると思う。ほぼと確実って互いが互いを矛盾し合う意味になってるから日本語間違ってるけどな。 「――いや、そんなことはどうでもいいって。とにかく教えろ」 「しっかたないなー。捕まった後どうなるかは知らないんだけど、戻ってきた人たちは口々に『ハムエッグ萌え! あのとろける黄身の艶めかしさが胸の中のパトスを舞い踊らせる!』って言ってるらしいよ」 な、なんだそれっ。 「あと、一回の襲撃で捕えるんじゃなくて、何度も襲撃を繰り返して相手を追い詰めて、弱ったところを捕えるんだってさ」 うわ、性悪っ! 「だから今日はそんなに酷くなかったと思うんだけど、どうなの実際?」 あー、思い返してみればスナイパーはわざと狙いを外していたと思えるし、必死に逃げたけれど誰も俺を執拗に追い回したりしなかった。エアガンで近距離から撃ち込まれたけれど、一応痛みに耐えられそうな背中を射撃していた。急所や足に向けて俺を打ち倒せそうなものなのに、敵はそうしなかった。最初にバットを振りかざしてきた奴らもそうだ。動作が遅かったのは、俺の方に逃げる余裕を与えるためだったように思える。 「……くそ、あいつら肝心なところでわざと手を抜いてるな」 「おー、実体験からの意見だとなんかすごい本当っぽく聞こえるねっ」 「いや現実で俺に起きたことだからこれ。まだ背中が痛いからな」 「あっははーっ。これは噂で聞いたことだったから、実際どうかウチは知らなくってさ。正直、妙に確証が持てなくってねー」 悪びれた様子もなく声をあげて楽しそうな表情で笑う加宮。災難な俺の状況を楽しんでないか? 「ええと……ごめんね……」 佐緒里の方を見ると、胸の前に腕を当てて縮こまって心の底から俺に謝る姿勢をとっていた。 「いや、佐緒里のせいじゃないんだろ? なら仕方ないって」 「でも、わたしがいるからこんなことになってるんだよ?」 「そりゃそうだけど、佐緒里はそのことをわかった上で俺を家に住まわせたんだろ?」 「うっ、なんにも考えてなかったよ……」 「じゃあそんなこと考える余裕もなくて、俺を家に入れたのか」 「う、うん」 このうっかりさんめ。 「というか、こっちにそのこと教えてくれてもよかったのに」 「ううっ」 困った佐緒里の表情を見るに見かねて加宮はフォローを入れた。 「多分、言っても桜田君信じないでしょ」 「そうか?」 「じゃあさおりんにはファンクラブがあって、桜田君がさおりんと仲良くしてるのが気に入らないからその人たちが攻めてくるかもしれないって言われて、信じられる?」 「いや、信じない。絶対疑ってると思う」 「でしょ?」 「……確かに」 ゆっくりと頷いた後に加宮の顔を見ると、ばつが悪そうな顔つきになっていた。 「どうしたんだ?」 「えっ? いやいや、なんか言い方が悪くなっちゃったなーって思ったんだ。ごめーんねっ」 「なんだ、そんなことか。別にかまわないって」 手を軽く振って気にしてないことをアピールする。 「でも、これからどうしようか。その話だとあいつらは毎回俺を襲ってくるんだろ?」 頷く佐緒里。 「佐緒里からそいつらに言って止めさせることはできないのか?」 「うーん、あの人たちはわたしと関係なく動いているから、難しいんじゃないかな?」 言葉の尻尾に繋げるようにして、加宮が続けざまに言う。 「もしかしたら親衛隊、桜田君がさおりんを脅迫しているって思っちゃったり」 「それはこじつけだろっ」 「うーん、普通は親衛隊たちに一度やられたらみんな止めるんだけど、隆一はわたしたちから離れるわけにもいかないから、またあの人たちは来ちゃうんだろうね」 「学校の中では別れて行動するか?」 軽い提案だったが即座に3人が反論する。 「そんなのやっ」 「えー、面白くないー」 「むしろ近づけばいいんじゃね?」 最後のバカの意見は放っておく。というか、離れてしまったから今日、恰好の的になってしまったんだった。それはだめだ。 じゃあどうする? 転校先の学校でいきなり集団リンチに遭って元気でいられるほど、俺は我慢強くない。 苦悩している中、佐緒里は変な提案をした。 「わたし、ずっと隆一のそばにいるよ。そうすればあの人たちも隆一をいじめたりしないと思う」 「でも今日の朝、3人一緒にいるところで俺だけ切り離されたんだぞ?」 「じゃあずっと見てるっ!」 「俺のことをか」 「うんっ!」 ああ佐緒里、その発言はちょっと――。 俺からは言いずらいので黙っていて、加宮が言う。 「さおりんなんかそれ告白するときのセリフみたいだね」 「そ、そうかなぁ?」 ぼーっと、風景の全体をなんとなく眺めるような表情で佐緒里は自分の発言を顧みている様になる。 そして、ようやく言葉の意味を理解した。 「あうあうあわわわわっ。ど、どーしよっ! わわ、わたしとんでもないことをっ!」 慌てふためいて腕をあたふたさせる佐緒里。 「いや、まあそんな意味で言ったんじゃないってのはわかってるから」 「そ、そう? ありがとー……」 もじもじと指を絡ませて、佐緒里は俯いてしまう。 顕著に響く喧騒が教室内を飛び交い、朝の学校の雰囲気を作り出している。廊下側に弱い日射が落ち、窓側には影しか降りないことで、部屋全体に青めのトーンを演出させている。 「お前らー、さっさと席につけー」 その後、梶野さんが教室に入ってきて授業が始まる。 以前、月奈が男嫌いだと言われていた理由がわかった気がする。そりゃ自分の好きな女の子がそのへんの男どもにその可愛さを認められたまではいいけど、その男どもが佐緒里に付 きまとって下心だけで近づいてくるのならば、そんな奴らは全てふっ飛ばしたくもなるだろう。しかも、佐緒里の性格じゃあ強く拒否ができない。思春期の女の子なんだから多少の潔癖さは持ち合わせているだろうし、それが男嫌いと勘違いされている要因なんだと思った。本当は佐緒里に下心を持って近づく奴がいるからなのにな。 ☪ฺ 午後の授業が始まる前に、梶野さんからダンボールに入った荷物を職員室の付近にある廊下から教室まで運ぶように頼まれて、渋りながらも了承。恐らく、学校に慣れていない俺にたいする配慮なんだろうけど、それでもやっぱり面倒事を押しつけられただけじゃないのか、と勘繰ってしまう。 佐緒里が付き添うよ、と言ってきたのだけど、一度行ったところだし別にすぐ帰るから大丈夫だと言って遠慮しておいた。 職員室の近く。会議室の前の廊下にそのダンボールが積まれて置いてあった。どうやらクラスごとに一つ持っていかなければいけない荷のようだ。 このままそれを担いで自分のクラスに戻ってもいいのだけど、衝動的にそんな気分でなくなった。知らない街の中を見て楽しむのが俺の好きなことなら、知らない学校の中を歩いて楽しむのもまた、俺の楽しみだ。幸い、次の授業が始まるまで大分時間がある。ということで、職員室の左手に伸びている階段へと足を向けることにした。 特別校舎棟3階。昼食の最中なので、誰も彼も教室から出て次の授業が始まる場所へと移動する気配がない。リノリウムを靴の裏で叩く音が廊下の突き当たりで反響して、それが小さな余韻を残しながら消えていった。 やがて音楽室と書かれた表札の真下に立つ。扉は開いていたのでちらっと中を覗いて人がいるかどうかを確認する。誰もいない。不用心だな。金属の敷居をまたいで音楽室の中へ踏み入る。まず目に飛び込むのは大きなグランドピアノと著名な作曲家たちの巨大な人物画のレプリカ。整然と並んだ木の机の合間を縫うように歩いて、床の軋む音を楽しみながら、誰もいないというこの状況に多少の優越感を感じて、端に避けられている奥の楽器のところまで歩く。埃がかぶらないように布がかぶせられているそれら。シロフォン、ヴィブラフォン、スネアドラムにハイハット……ってドラムセットか。あとはウィンドチャイムとフィンガーシンバル。多分金管楽器は黒い革製のケースに入れられて音楽準備室の隅に保管してあるんだろう。グランドピアノの方へ視線を向けてその先の扉のドアノブに手をかける。鍵は掛かっていなかった。またもや不用心だ。そのまま戸を押して中を覗くと、机から少しだけはみ出す形でネイビーの丸型ケースが置いてあるのが見えた。あのくらいのケースなら一見しただけで覚えがあった。蓋を縦に開いて、中身を確認する。 「ヴァイオリン――だよな」 ためらわず手にとって、状態を確かめる。駒の位置や角度、魂柱はちゃんと立っている。その位置は弾いてから直す必要性を確かめよう。アジャスターの先は少し飛び出しかけているけれど、これくらいなら使っても問題はないはずだ。それ以前に、修繕するための道具が近くに見当たらないので、無視した。弓や弦は初めから張ってあるので、長い間放置されていたものではないんだろう。チューニングのために1弦から4弦までの音を合わせる。音叉かチューナーがないかと再度、周囲をきょろきょろと一瞥したけれど、ないので勘だけを頼りに音程の正誤を確かめた。 それにしても大切に使われているな。こんなところに放置しているのはアレだけれども、ヴァイオリンの状態はかなり良好だ。 顎と左手でヴァイオリン本体を支えて、柔らかく弓を持って構える。あとは体の方が勝手に動いて、旋律を紡いでいく。初めはゆっくりと、空気の壁が水面を叩くことでゆっくりと波紋を広げて、静かに消えていくかのように。駒の位置は問題ないようだ。鈍っていた技術が少し指先に戻ってきたら、徐々にペースを上げていって旋律の波を激しいものにしていく。やがて気分が高揚していき、目をつぶって、成るがままのメロディーを―― ガタン 自身の演奏にほぼ陶酔する寸前、その完成された雰囲気に入った雑音を俺は聞き逃さなかった。びたりと演奏を止めて、何の音なのかという探究心に追い立てられる。間接的に演奏を邪魔されたことへの不快感はなぜか生まれなかった。 ヴァイオリンを手に持ったまま音楽準備室を出て、状況を確認する。足音が聞こえた。女の子の制服を着た小さな子が走って音楽室を出ていこうとする姿が目に映る。頭の後ろに結わえた大きな髪飾りが無造作に踊っていた。その後ろ姿を歩いて追いかける。もちろん徒歩で走る人に追いつけるはずもなく、廊下から顔を出して遠目に一見しても、そこに人の姿はなかった。ため息を一つ落として、持ち主だったのかもしれないという背徳感にまた弾く気を削がれてしまった俺は、ヴァイオリンを片づけるためにその場から身を引こうとした時、 ガタッ 建てつけの緩い戸が少し揺れて音を立てた。俺は扉に触ってない。どこも窓は空いてないので、風の仕業だとは思えない。人為だろう。廊下側の戸へ視線を向けると、 「っ!」 人が、戸にもたれるよう丸くなって座り込んでいるさっきの女の子が、おびえた表情でこちらを見ていた。 すごく声、かけにくいなぁ。 「おい」 しまった、なんか威圧してしまった気がする。 「あう」 「えっとー、こんなところでなにをしているんだい?」 い、ってなんだよ。 言葉が返ってくる様子もなく、少女はおっかなびっくり、縮こまって怯えた様子で立ちあがり、消え入るような声で言った。 「…………ます」 「え?」 そのまま沈黙。心地よいとはかけ離れた奇妙な静寂が少女との間に流れる。 「ごめん、聞こえなかったんだけど」 ばっ、と少女は俺の顔を一瞬見てすぐにこうべを垂れてしまう。代わりに赤い彩色を施した可愛げのある髪飾りが良く見えた。 「し、しつれいしまひゅ!」 ……ひゅ? 語尾を噛んでいたことに呆気を取られているうちに、少女はすぐさま踵を返して、左手にある階段へと消えてしまっていた。 俺、そんなに怖いか? そんな微細のショックを受けながら、やっぱりヴァイオリンは賞を取るのも大切だろうけど、自由気まま、天真爛漫に弾いているのが一番楽しいなと思いつつ、その誰ともわからないヴァイオリンの所有者に感謝しながら、音楽室を後にした。 というか、あの女の子身長低すぎないか? 制服はダボダボだし、小学生がここの制服を着ただけの容姿に見えてしまったんだけど―― まあ、気のせいだよな。 |