今は昔、世間から忘れられた、あまり知名されていない村のはずれにある暗い森。そこは薄暗くてじめじめした印象があって、村人たちは誰もそこに近づこうとしませんでした。さらに、その森には人を惑わすそれはそれは怖い魔女がいると噂されていて、踏み入れて迷い込んだ人は、二度とそこから帰ってくることはないという話でした。
 実際、人はここに迷いこんだら方角も時間もわからなくて頭がおかしくなって錯乱して、結果的に底なし沼に足を入れてしまって死んでしまうこともありました。
 ちなみに、森に魔女はいます。それはわたしが証明できます。だってそれは、わたしの母でしたから。でも、恐ろしくともなんともない人でした。どこにでもいるような普通の――普通と呼ばれる類の母がどのような人柄かは知る由もないのですが――母性愛を持ってわたしを時に愛し、時に叱りつけてくれる存在でした。それはわたしが行ったことに対する正しい接し方であり、決して理不尽に怒り狂っていたわけではありません。
 そしてわたしは母を尊敬していました。気の弱いわたしと対照に、いつもおおらかな立ち振る舞いをしていた母はとても勇ましくて羨ましかったので、見習う点が多々ありました。見習ったとしても、効率の悪いわたしでは上手くいきませんでしたけれど。
 話が逸れてしまいました。とにかく、母は怖い人ではなかったのです。
 また話は変わってあくる日。わたしは母に食べられるキノコを採るよう言われたので、野山に出かけました。木漏れ日となって降り注ぐ光が宝石のようにきらきら輝いていて、外に出る絶好の日でした。
 数刻ほど時間を費やして食べられるキノコと毒を保持しているキノコを選別しつつ、採集に勤しんでいると、遠くから反射してきた光が視界に飛び込んできました。それは一瞬のことで、一定の位置にいるとその光が何度も視界に飛び込んでくるようです。
 時折眩しさに目を細めながらその光源に近寄っていくと、やがて新緑の苔や草木や土色の中に混じって人の姿が浮かび上がってきました。男の子でした。反射する光源は右手の人差指にはめられた、銀細工の施された指輪だったようです。
 体調が優れないらしく地面に倒れて荒い呼吸を繰り返していました。唇の色は紫に変色して、断続的に苦痛の表情を浮かべています。わたしは状況に困惑しながらも母を呼んで、男の子を助けたいという思いに直結してその対処を求めました。母はそんな私の願いを汲み、魔法の力を用いて少年の治療に尽力しました。
 病気の原因は知りません。変なものを食べたのか、持病か風土病なのかな、と思うだけに留まって聞くことはしませんでした。どうせ病名を告げられてもわかりませんし、聞いたところでわたしにできることは母を呼んで彼を助けてもらった時点で終わっていたからです。幼いながらに変なところで好奇心の薄い子だったのでしょう。さらに言うなら、母の魔法は万能なもので、わたしが心配しても杞憂なものでした。
 日が沈むころには男の子の顔色が正常なものへと戻り、目を覚ますまではさらに数日かかりました。男の子は起きると慌てふためいて、わたしたちが――母が主になんですが――助けた経緯を伝えると、全身で精いっぱいの感謝の意を表現しました。

 自身をベーメルと名乗った男の子は母に強く言い放つと、母は遠慮して、
「その代わりと言っては何だけど、アリスと遊んでくれないかしら?」
 とベーメルに頼みごとをしました。アリスはわたしの名前です。ベーメルはわたしの方をまっすぐ見つめます。わたしは、住んでいるところが誰も寄り付かない場所だったせいで、母以外の人と接した試しがありません。そのせいで赤の他人に対して酷く臆病になってしまう性格でした。そしてベーメルの視線に耐えかねたわたしは母の背中に隠れて背中をまるめて、怯えた表情になってしまいました。でも、ベーメルは母に向き直ると元気よく、
「わかりましたっ!」
 と頷き、わたしの下に駆け寄って素早く右手を掴みました。
「いこう!」
 ベーメルはわたしが戸惑っていることに目にもくれず、強い力で外へと引っ張り出しました。わたしの方はと言うと、確かに赤の他人に触れ合うことへの恐怖はありましたが、それよりも知らない人とつながりを求める心のほうが勝ったようでした。ベーメルを拒絶しなかったということです。初めはつんのめっていたけれど、やがてベーメルと同じ歩調になって口元から笑みがこぼれていきました。
 ベーメルからはいろいろな遊びを教わりました。ベーメルが夫役でわたし妻の役のおままごと。お母さんは確か――姑の役柄でしたっけ。あと草笛や鬼ごっこ、水切りをしたり、シロツメグサで髪飾りを作ってあげたり、活発な遊びからお淑やかなものまでを網羅して、ほとんど毎日遊んでいました。
 子供のイノシシがこちらに向かって敵意をむき出しにしてきた時も、ベーメルはわたしの前に出て護ってくれました。何分もの威嚇だけの牽制が続くと、イノシシはそっぽを向いて草むらの中へと去っていったのでなんの被害もなかったのが幸いでした。その時のベーメルは物語の中だけで見るカッコいい騎士様のように思えました。
 ちなみに、魔女の娘であるわたしは当然魔法が使えます。しかし体内で貯蔵されている力量があまりに大きく、子供のわたしでは扱えない代物でした。それゆえに母から魔法を使ってはダメ、という言いつけを受けていました。微弱な魔法でさえ、自らの体を蝕む毒でしかないようです。さらに言えば、蓄積した魔力はどこかで放出しなければいけなくて、そのたびにわたしは自分の体に鞭を打って魔力を放出しないといけませんでした。母がいつも傍にいてくれたので、暴発して身を滅ぼすことはなかったですけど。
 日が経つにつれてベーメルとわたしはとても仲良くなり、親友と呼んでもいいほどの関係になりました。本当のことを言えば、ベーメルのことを好いていたんだと思います。始めて見た男の人ということもあったのでしょうが、それでも恋愛感情があったのでしょう。乙女心が芽生え始めたのだと思います。
「ね、ねえベーメル。わたしのこと、好き?」
「うん、好きだよ」
 友達感覚での好きという意味だったのかもしれませんが、その言葉だけでわたしは舞いあがっていました。
「ほ、ほんとに?」
「うん」
「ずっといっしょにいてくれる?」
「もちろん」
 その言葉はわたしを幸せでいっぱいにしてくれました。
「わたし、ベーメルのためにごはんもおせんたくもおそうじもできるようになる! だからずっと好きでいてね?」
 子供どうしで交わされたささやかな約束事。ベーメルのおかげで毎日が楽しくなったわたしは、ベーメルと永遠に日常を過ごせることが当然だと思っていました。
 ベーメルと出会ってから数カ月経って、空に暗雲がたちこめていた日。不穏な気配が森を浸食し始めて、それを察知した母はわたしたちを家内へと呼びこみました。昼下がりに武装した集団が小屋を取り囲んでいるのが窓越しに見えました。大きな体躯。鈍い輝きを放つ黒塗りの大きい鞘は幼いわたしでも恐ろしいものだと理解できました。盗賊かしら……ざっとみて三十人ね、と母が呟くのが聞こえます。
 一人だけ赤いバンダナを腕に巻いた、リーダー格らしき男が声を張り上げました。
「ここに魔女がいると聞いた! 出てきてもらおう!」
 すぐに母は窓から顔を出し、声を張ります。
「うるさい人たちね! いきなりそんな大勢で押しかけて迷惑だと思わないのかしら!」
「これは失礼。この森には人を惑わす魔女がいると噂されていたので、こちらとしても警戒せざるを得ないのだよ」
 野蛮な風格だったのに口調は昔話に出てくる騎士様のようだったので、子供ながらそこに違和感を覚えて母にそのことを尋ねようかと思案しました――が、母が口元に指を当てていたので口をつぐむことに決めました。母がゆっくり外に出て会話が始まりました。
「心外ね。ええと、あなたたちは村に雇われた武装集団かしら?」
「いや、そうじゃない。魔女と戦ってしまってはこっちにも被害が酷いからな。頼まれたが断わってしまった。これは念のため、武装してきただけだ。――ベーメル! いるんだろう、出てこい!」
 再び男が声を張り上げると、ベーメルは何かを覚悟したような表情で立ち上がり、母の後を追いました。わたしも後に続きます。
「あら、結局みんな来ちゃったのね」
「すみません。――なぜここに来たという言葉はぐ問でしょうね、お父様」
 おとうさま?
 赤いバンダナを頭に巻いたお父様と呼ばれた男が答えます。
「お前を連れ戻すため、ここに来たに決まっているだろう」
「ぼくはもどりたくありません」
「魔女に魅了されたのか」
「ちがいます。ぼくがここにのこりたいりゆうは、ここに好きな人がいるからです」
「惚れた女――?」
「はい、ぼくはアリスが好きです」
 ベーメルがわたしのほうを一瞬見て、また正面に向き直ります。
「だから――故に帰りたくないと、そう言いたいのか」
 ベーメルは首を縦に振ります。
「魔女ではなく、魔女の子に籠絡されたのか……」
「――そうですね」
「お前と言うやつは!」
 ベーメルは男の言葉に割り行って会話を続けた。
「でも、まじょの力によって好きにさせられたわけではありません。ぼくはアリスのすがたにひかれました」
 その時のわたしはこんな切羽詰まった状況でありながらも、心の中は嬉しさの渦でいっぱいになっていて、今すぐにでも赤くなったほっぺを隠して布団に転がりこみたかったです。もちろんそんな状況じゃないというのは子供のわたしで察することができましたから、母の後ろで大人しくしてました。
「理由は知らん。何にせよお前はこちらに戻る気はないというわけだ」
 ベーメルの父は苦い物を噛み潰したような顔で仲間に言い放ちました。
「連れてこい。こうなっては荒療治でなんとかする他ない」
「お父様!」
「待ちなさい」
 二人の会話を断ち切った母はベーメルの父に指先を突き付けて、
「あなた、まずわたしに言うことがあるんじゃなくて?」
 堂々と言いました。
「は?」
「道に倒れていたベーメルを小屋まで運んで治療して、目が覚めるまで看病していたわたしになにか言うことがあるんじゃなくて?」
 いきなり会話に横やりを入れられたベーメルの父は一度素っ頓狂な表情になった後、一度咳払いをして言いました。
「……まあ、その件には感謝しているぞ。貴方がいなければベーメルとこうして再会することはなかったからな」
「じゃあ、ベーメルは私が預かります」
 木の葉の揺れや虫たちの囁き、風の流れなどの一切が凍りついた気がしました。
「わ、わけがわからん。ベーメルはわたしの跡継ぎとなる男なのだ。だから私達と共に行かねばならない。それを――」
「恩人の言うことくらい訊いたらどうなのよ」
 母は相手の言い分にまったく物ともしないで、鋭い視線をベーメルの父にぶつけます。
「恩人だからと言って譲れるわけがないだろう! これは私達の未来に関わる問題なのだ!」
「嫌よ。だってあなたたちまともな集団だとは思えないもの」
「もし受け入れられないなら、こちらは強行手段に及ぶ」
「あら、魔女に勝てると思い上がってるのかしら」
「自分の身を守れるだろうが、その子たちの身は守れないだろう。この数だ」
 ベーメルの父が言う主張を多少は聞き入れたのか、母は少し悩むような仕草をしました。
「譲る気はないのね」
「毛ほどもない」
「仕方ないわね……ベーメル。ちょっとこっちへ来なさい」
 指先をちょいちょいと動かしてベーメルを招き寄せると、その首筋に血で濡れた指を這わせて血印を描きました。わたしにはそれが何を示すのかよくわかりません。
「な、なにをしているか! 全員、ベーメルの救出にかかれ!」
 雄々しい叫びが森じゅうに響き渡って、男達は雑多に生えた草を踏みつぶして走り出します。
「――静まれ! 騎士崩れどもが!」
 魔法で声量を大きくした母の言葉が、女性の叫び一つで止まるわけのない男達の足を止めました。まるで針のような、一瞬の動きも許さないような空気が全身を硬直させます。盗賊たちの動きが止んだことを確認すると、母はとても良く透った声で言い放ちます。
「交渉をしないかしら」
「……話だけなら聞こう」
「さっきから思ってたけど、物分かりのいい方ね」
「早急に用件を言え!」
「でも、騎士様ってせっかちだから嫌だわ。――さて、ベーメルの首の裏に描かれたこの血印。これのおかげで私はベーメルの視界を借りれるわ。ああ、間違っても私を殺そうとか考えないようにね。ついでに命まで繋げておいたから、私が死んだらベーメルを殺すことになるわよ?」
 そのまま続けて、
「だからむさ苦しい野郎たちを下げてくれないかしら」
「くっ……!」
 ベーメルの父は左の手を上げて、部下を自分より後ろに下がらせました。
「それで我々にどうしろと言うんだ」
「義賊になりなさい」
 ぎぞく?
 その言葉はここにいた全ての人の目を丸くしました。ちなみにわたしは意味が良くわかないのできょとんとしていました。
「義賊ってわかるわよね? 民のためになるような行動をとる集団のことよ。権力者から貴金属をかっぱらったり、領主や富豪人の行動を正したりするの」
「そ、そんなことはわかっている! しかしどうして、我々がそんなことをしなければならないのだ!」
「どうしてとか、なんでとかそんなことは考える必要はないわ。あなた方はとにかく、人のために尽くして尽くして尽くしまくりなさい。もしあなたがまだ人から略奪行為を続けるようなら、わたしは自らの命を絶ってベーメルを殺すわよ?」
 ベーメルを殺す、という言葉を聞いたわたしは気が動転して、母の服の端を掴んで泣きそうになりながらも問いかけました。
「殺しちゃ、ヤダっ」
 母はわたしにしか聞こえないように耳打ちします。
「……大丈夫。本当に殺す気はないわよ」
「ほんと?」
「もちろん」
 嬉しい回答に満足して、わたしは服の端から手を離してまた話に聞き入る側へと回ります。
「それで、要求を呑んでもらえるかしら? そしたらベーメルはあなたに帰してあげるわ」
「悪魔に魂を売り渡した魔女風情が――!」
「ふふ、いくらでも言いなさい」
 小さな砂時計の中身が落ちきるほどの静かな時間が流れた後、ベーメルの父は口を開きました。
「くそ……条件を呑もう。そうすればベーメルは返してもらえるのだろう?」
「ええ、もちろんよ。帰すのは明日の朝でいいかしら?」
「……ああ。脱走しないように貴方の家を外から見張らせてもらうぞ」
「ええ。まあ逃げる気なんてさらさらないんだけどね」
 こうして約束が成り立ち、わたしとベーメルは次の朝に別れることになりました。
 彼らが去って母はすぐに、
「ああ、上手くいかなかったわ。結果的に二人を別れさせることになってしまって本当にごめんなさい」
 と言いました。わたしは子供のように泣きわめいて、母を困らせてしまいましたが、どうにもならないことを知ると、二人で最後の日をできるかぎり遊んで過ごしました。
 ちなみに後で聞いたのですが、ベーメルに結ばれた血の印が及ぼす影響は全てハッタリだったそうです。もし母が魔女の力を用いて対抗すると言ってハッタリを効かせたら、あの盗賊が背水の陣の思いでこちらに挑んでくるかもしれない。そうなったら、もうわたしたちの命はこの世から消えていたことでしょう。だから母はいつかの再会を義務付けるために妥協していったんわたしたちを離ればなれにさせたんだと――そう自分なりの理解をしました。
 そして次の日。
 別れ際にベーメルは銀の装飾がついた指輪をわたしの左手、その薬指にはめました。
「これはぼくらがいつか出会うための目印だよ。またぼくはここにもどってくる。そのときまでちょっとだけ、さよならなんだ。いいかい?」
「……うんっ」
 わたしは、わがままを言うことでベーメルを困らせたくありませんでした。だから、できる限り悲しみを悟られないように笑顔で別れようと努力しました。
「ぜったいもどってきてね。わたし、十年でも二十年でも待ってるからっ」
「うん、かならずもどってくる。だから、だからまたね」
 そしてベーメルはわたしの目尻に溜まっていた涙を拭きとり、笑顔で腕を大きく振ってさよならをしました。ベーメルは、向こうの集団へと歩いて行く途中、振り返ってわたしの下へと駆けてきました。なんだろうと思った次の瞬間には、わたしの頬に軽いキスを交わしてくれました。なんだか唇の裏から耳の先まですごく熱くなってしまって、声を出そうと思ってもどこかでつっかえて、出せませんでした。
「じゃあねっ!」
声を返す間もなく、すぐにベーメルは向こうへと行ってしまいます。
 その時、少し見えたベーメルの涙をわたしは忘れないでしょう。
 
 
 
 
 そして木漏れ日となって零れてくる、清らかな水面の輝きとよく似た光を手の平に落とし。
 ベーメルと出会った、あらゆる生命が芽吹く季節と何度も巡り合い。
 西の空の残光が消える頃に見える星々を、ベーメルも同じように見ていることを願って思いを馳せて。
 いつか感情が高ぶったとき、自分の中に眠る獰猛な獣が暴れだしても制御できるように二、三十年もかけて魔法を使う鍛錬をして。
 私は大人になりました。

 母は怪我によって亡くなりました。元々傷や病に対して有効な魔法を使うのが得意な人だったので、軽い程度で命を落とすはずがないのですが――ある冬に起きた出来事が原因だったのでしょう。その冬の年の穀物の育ちは非常に悪く、有り体に言って飢饉と言われる状態でした。不作とは違います。不作よりひどく、数十年に一度起きるか起きないかの状態が、飢饉と呼ばれています。その影響で成熟した木の実が少なく、人と限らずこの山村のあらゆる生き物は死ぬか生きるかの境界線を彷徨っていました。そのせいで、この小屋では野生の動物をよく見かけました。山の上に住むはずの彼らは冬に向けて十分な食物の貯蔵に失敗して、食料を求めるために山を下りてきたのでしょう。集落の畑に植えられているわずかな農作物を取りに来たのでしょう。主に猪や熊は出会ったら気付かれないように逃げるよう母から言われていて、私達の食物の採集も困難を極めました。しかし手を抜いていては空腹で倒れてしまいます。
 寒空の下、予想以上の――それでも4本程度のキノコですが――収穫が得られた帰り道。降り積もった霜が地面に凍りついて、踏みならすたびにパキパキと薄い氷が割れていきます。その行為に夢中となっていたせいで周りへの注意を散漫にしていました。多分、食べ物を多く手に入れられたことが嬉しかったのもあったのでしょう。隣で歩いていた母は今日はちゃんと食事がとれることに嬉しそうな、本当に嬉しそうな表情を浮かべて喜んでいました。
 家の屋根だけが見えてきた時、母が突然振りかえりました。それにつられてわたしも同じように家に背を向けます。始め、見えたそれはただの茶色の塊だと思いました。でもわたし達と対峙せんとするその物体、いや動物はむくり起き上がって、身の丈が私達の2倍はあると思われるほど大きな体躯の熊だとわかりました。熊は涎を垂らし、荒い息を吐いて、割けるほど開いたまなじりで私達の方を見ていました。明らかに異常。遭ってから敵意を示すならまだしも、出会う前から必死になっているその姿に、背筋を刃の先端でなぞるような感覚が襲いました。純粋な殺意を感じたのです。経験のないことでした。足が地面に縫い付けられたかのように固まり、目の前の熊以外の全てがぼやけて見えました。不意に視界が何かで埋まって、しばらく間を空けてやっとそれが母の背中だと理解できました。
母は一言だけ、振り向かずに言いました。
「私が良いと言うまで――眼をつぶっててね」
 母は即座に全身に魔力を行きわたらせました。その威圧の度合いは、傍にいるわたしにも感じ取れました。言われた通り、顔を手で覆って眼を瞑ります。何かが暴れる音、刺さる音、焼ける音。
「いーち、にー、さーん、しー」
 わたしはその音で何が起こっているかを想像したせいで、嫌に恐ろしくなったので大きな声で順番に数を叫ぶことで気を紛らわせることにしました。
 地面が震え、舞いあがった落ち葉が再び地面と結びついた音。続けてくぐもったうめき声が断末魔の叫びとなって――
「ほら、目を開けなさい。もう大丈夫よ」
 言われたとおりに目を開けます。奥には黒焦げになった熊であった物。目の前には体が擦り傷だらけの母がいました。母に張り付いている頭から滴り落ちた血の跡が如実にその痛々しさを物語っています。
「お母さん……痛そう……」
「わたしはいいのよ。アリス、怪我はない?」
「あ、うん。お母さんは……」
「大丈夫。この怪我も大したことないのよ?」
 いくら鈍い子供のわたしでも、母が多少の無理をしているのはわかりました。それがよりいっそう不安感を煽って仕方ないのです。でも母の振る舞いはわたしに気を負わせないためのものであり、わたしが心配したところでできるのは応急処置程度のことなので考えるのを止めて、母の言葉を信じることにしました。
 母はいきなりわたしを抱きしめます。わたしはすぐに受け入れて、母のいい匂いとその温かさに身を任せました。そのまままぶたを細くしていって睡魔に負けそうになったのですが――その意識は無理やり覚醒することになりました。
 奥で、熊であったはずの物体が、黒焦げの物体が起き上がり、
「お、おか……お母さ……」
「ん? どうかしたの?」
 渇望に飢えた憎悪の視線をこちらに向けながら、
「熊が……熊がっ」
 力を振り絞って地面を蹴り、わたし達のほうへと襲いかかってきました。
 母は私の言葉を聞いた瞬間に身を離して後ろを向きます。その時にはもう熊が迫ってきていて、一瞬の躊躇も許されない状況でした。母はすぐにわたしを思い切り付き飛ばし、熊はその隙を狙ったのか母の背中へと鋭い鉤爪を伸ばしました。母は成されるがままに傷を負って苦痛の声を上げ、それでもひるまずにすぐさま熊の頭へと手を伸ばして炎を放ちました。熊は頭だけ火だるまになってすぐに地面にうずくまり、全身に炎が行き渡ると今度こそそのまま動かなくなりました。
「お母さん!」
 すぐに母の名前を呼びましたが、返事はありませんでした。覚束ない足取りで駆け寄って正面から抱きしめます。
「ああ……アリス……ごめんなさい……」
 背中に回した手。そこには温かい感覚。でもそれは体温ではありませんでした。滑り。べた付き。鉄の匂い。触れた自分の手を見ると、そこには異常なほどの血が纏わりついていました。
「お母さんっ! お母さんっ!」
「アリスが無事だったなら、わたしは……もう……」
 力なく倒れる母を支えきれずに、わたしは押しつぶされそうになりながらもゆっくりと地面に寝かせました。そのまま手を握ります。口から血を流し、腹まで達しそうなほど深い傷を負いながらもわたしの事を想う母の姿に涙が溢れてきました。
「ああ……ごめんなさいね。わたしの愛しいアリス――」
 小さく言葉を呟き、不意に母の腕が重さを増して堪え切れずにわたしは地面に置いてしまいました。その後にいくら母の名を呼んでも答えが返ってくることはなく、だんだん体が冷たくなっていき生気が感じられなくなって、否が応でもある結論に辿りついてしまった瞬間、
 まるで上から垂らした蜂蜜のように時間が間延びして、わたしはこの出来事を生涯忘れえぬものとして抱え続けることになりました。

 こうして母が怪我によって亡くなったことで、一時期立ち直れないほど心の傷を負いましたが、いつかベーメルが私のところへ来てくれることを心の糧にして、なんとか私は立ち直ることができました。魔法を制御しようと考えたのはその後です。どうやらわたしが魔法を制御できなかったのは未成熟な子供だったからのようで、大人になっていくにつれてその分量を少しずつ操れるようになっていきました。ちなみに、薬指にはまらなくなった指輪は今、小指にはめたりペンダントトップにして今もアクセサリとしてちゃんと使っています。
 ということで今は一人身。村の深奥で隠居の生活です。やがてベーメルと再会することを夢見ているのですが、なかなか叶いません。実は、何度か本当にベーメルが戻ってくるのかと疑ったこともありましたが、その考えは一瞬で払拭して健気に待ち続けることを選びました。どうせここのほかに行くところもないのですし。
 怖い魔女が人々を誘惑して鬱蒼と茂る森から帰らせないと噂されていた話も、いつしか背筋が凍りつくほど美しい魔女が誘惑してきて――という内容に変わったということを森に迷い込んだ人から小耳に挟んだのが記憶に新しいです。
あくる日、梢から落ちた紅葉が折り重なって絨毯のようになっていた頃。
 突然白銀の甲冑を身に纏った屈強な男たちが小屋の戸を壊しかねない勢いで戸を押し開けて、取り囲んできました。完成された平穏をぶち破る勢いでした。かなり物騒な雰囲気で、それに圧倒された私は怯えて一歩後ろに引きました。
「な、なんなんですかっ」
「アリス=リア、だな?」
「そうですけど……」
「我々は女王の命により魔女狩りの任についている。貴様には魔女である嫌疑がかけられている。よって魔女裁判を貴様に行う事となった。おい、暴れないように胴に縄を巻け」
「え……あ、いやっ! や、やめてくださいっ!」
 必死にもがいて抵抗したけれど、自分より屈強な威圧感のある男たちに囲まれては逃げられるはずもなく、成されるがままに捕えられてしまいました。その後山を下りて魔女裁判という名の拷問が行われると言われたので、自分は魔女ですと自首することでその行為から逃れることにしました。どんなことをされるのでしょうかと訊けば、一番残酷なのは指を締めあげられたり熱い釘で頬を貫通させられたりすることだと言われたので、やっぱり素直に言っておいてよかったなと思いました。魔女狩りの名の通り自分が魔女だと認めてしまうと、その後は火で炙って処刑が執行されます。もちろん死にたくはないので、魔法によって火を消すか逸らすかをするつもりです。魔法で人を傷つけることは母から強く口約束で止めるように言われているので、今回もそれを律義に守って身を護ることに専念するつもりで身構えていました。
 魔女が一人だけだったということもあり、特別に私への火刑台が設けられました。高台に大木を突き刺しただけの簡素なものです。私が魔女であると認めてから執行されるのに数日の間が空いていたのは、製作期間や執行時刻の情報を村人に流布する時間が必要だったからなのでしょう。そして火刑執行当日。村人たちが祭の始まる前のようにそわそわしています。何が楽しいのでしょうか。何に期待をしているのでしょうか。死というのは人を興奮させる薬のようなものになっているのが酷く恐ろしく思えます。 
 黒い法衣を身に包んだ神父様が金色の十字架を胸の前に出しつつ、兵士を率いて来ました。神父様は私のほうに目もくれず、村人たちに自分たちの正当性を確立するための主張をしています。
「近年、わが国の全域で致死性のある伝染病が蔓延しているのは皆が知ってることでしょう。ある地域では村一つが滅びてしまったという報告もあります。一つや二つではありません。何十という村が滅んでいるのです。当初は、神がお与えになった我々への試練だと思案しました。しかし! これは国を滅ぼしかねない悪魔の行為に他なりません! その実、これは神の名を騙って悪魔を操り我らを滅ぼそうと目論む、魔女の所業です! 真意は悪魔に操を捧げた魔女のみぞ知ることです。私達が知るところではないし、知ったところでそんな人非人の言い分は、我々の理解に苦しむところでしょう。だからと言って彼らをこの世にのさばらせて良いものでしょうか! 跳梁跋扈している魔女たちを今こそ全て滅ぼすのです! 我々は確固たる意志を以って、徹底して立ち向かいここに魔女狩りを執行します! これは神の御意志です!」
 人々は神父様の主張を一心に聞き入っています。それに反対の意を唱える人はまったくいません。催し物の前の人々の会話が呪詛のように思えてきました。
 今、この火刑台の上に磔にされて身動きとれなくなっている私はいまいち状況の危機感を掴めていません。自分が灰となる危険はないのですから落ち着いているのは当然です。でも、だからと言って村人を恨みがましく見つめたり、神父への怒りの感情が湧いてこないのはどうしてなのでしょうか。人として大切な感情が欠落しているのでは、という衝動に苛まれます。どうせ死なないからと、冷静に取り繕っているだけなのでしょうか。本当はそこらじゅうに恨み辛みを吐露して、心に溜まったどろどろしたものを無くしたいのでしょうか。このような縷々の思考を繰り返していると、分厚くて黒い表紙の文書を持った神父様が近寄ってきました。
 神父様は私のほうへ耳打ちします。
「君、なかなか美しい容姿をしているじゃないか。もし望むなら私の夜の共になりなさい。そうしたら命だけはどうにか助けてやろう」
 とりあえず神父様のしもべとして仕えて生きれば命は助ける、ということでしょうか? 私には意味が計り兼ねました。神父様の物言いはややこしいです。
「よくわかりませんが、お断りします。私はこの地で生きて、そのまま死にますから」
「――チッ」
 神父様は小さく舌打ちすると、胸の前に垂らした小さな銀の指輪を指で弄びました。
「おお、そうだ。この指輪に見覚えはないかね?」
 見覚えのある、銀の指輪でした。刹那的に嫌な予感が全身を駆け巡りました。
「……もっと近くで見せてもらえませんか?」
 神父様は呟くようなこの言葉を確かに聞き入れて応えます。
「ふっ、まあ今生の土産となるだろう。見るがいい」
 神父様は首にかかっていた指輪を細い紐ごと私の目の前に突き付けます。
 大きさ。
 細工。
 傷の具合。
 いままでで一番物を注視したと思います。それほどにこれは重要な行為でした。そしてこの行為は数秒のことだったはずだったのに、わたしには何分にも、何十分にも感じられました。
 こちらが見終わって指輪から視線をそらすと、神父様はまた指輪を首にかけました。
「……それをどこで、手にいれましたか?」
「ふは、そんなもん薄汚い義賊連中の長からかっぱらってやったわ」
 砂時計から中身が一気に落ちて広がるように、さあっと血の気が抜けていく気持ちの悪い感覚が全身を駆け巡りました。徐々に熱を帯びた血が私の持つ体温を確かにして、強烈な目まいが視界を不安定なものにしていきました。真っ直ぐな線が全て歪んで、距離感が消えうせて平面のように。唇が震え、体がわななき、心臓が胸を叩きます。
「その、長の、名前は?」
「ベーメル君だよ。いやあ死ぬ前のあの声はよかったなあ。君にも聴かせたかったよ。僕は死ぬわけにはいかないんだって何度も何度も叫んで、もう体中が面白いくらいに震えてるもんだからとても興奮しちゃってね。じっくりとみんなで嬲り殺しにしてあげたよ」
 そう言って神父様はほくそ笑みを浮かべました。
 ……死んだ? ベーメルが? 私を残して? この神父様が?
「さあ、そろそろ時間だ。火をつけましょう」
 なぜ、なぜどうして、これは夢ですか夢なんですか。
 
 神様……魔女たちは皆、別に悪魔と契約を交わしたわけじゃありません。彼らが私達を良く調べもせずに勝手な理屈を並べているだけです。
 
 ――私も人を殺すというのは非常に悔やまれます! 悪魔だろうと元は人だったのですから! しかし私達が生きるためには彼女を犠牲にしなければいけないのです!
 
 悪いことをしたわけではないのにどうして私はこうも虐げられなければいけないのですか。愛する人と結ばれることさえも許されないのですか。 
 
 ――私達は彼女の分も生き続け、彼女という尊い犠牲を忘れずに生を育んでいきましょう!
 
 どうすれば私は幸せになれましたか。答えは自分で探しましょう。しかしその可能性は潰さないでほしかったです。
 
 ――これは必要な罪です! ああ神よ、罪な私達を許したまえ。アーメン。
 
 潰された可能性に対して私は黙していれば幸せになれますか。幸せを消した人を赦してこのまま死ねば来世で幸福を掴めますか。
 
 紅色の紙が風にはげしく叩かれるようにうねる炎が足先に触れて、焼ける痛みが皮を焼いていきます。魔法で防ごうと思っていたけれど、そんな気持ちは失せてもはや一切生きる気力が湧きません。酸素がなくなってきて熱を帯びた空気が肺へと流れ込もうとします。涙で景色が滲んで、色が霞んで、腹の奥で溜まっている何かが熱くなってきています。
 生きる理由がありません。ただ、ベーメルが死んだと同じようにそのまま私も死ぬのか、眼前の仇を見つけてもなお抵抗せずに焼死体となるかと聞かれれば答えは一つでしょう。


 ――私はそれに応報を与えます。


 暗転した視界と無音の世界が垣間見えたその瞬間、薄れていた意識がどこかに飛んでいきました。その先に、私は彼岸の向こう側を見た気がしました。
 
 
 
 

   ……地鳴りがします。それは耳を塞いだ時に聞こえる、体内を流れる血流の音とよく似ていました。そのまどろみの中に沈んだ意識が溶けてしまいそうでしたが、なにやら心がすっきりしているのが気になって自然と目が覚めてしまいました。
 周囲を見渡したとき、初めここが死後の世界だと思いました。なにもなかったのです。景色がまるで別の世界のものかのようでした。
陥没した地面が円形に広がっています。周囲には何もなく火刑台や私を見物に来た人、神父様に兵士たち、その他もろもろ家屋や農具、馬小屋などがあったのですが、その全てが消えうせていました。形をなしていた物が残骸となったわけではありません。物質そのものが、蒸発した水のように消失していたのです。まだ冬になってないのに寒気が全身を襲いました。さらに、陥没した土地のさらに外側には倒壊した民家がその木片を吐瀉物のように散らかして、家としての原形をとどめていませんでした。しかもそれらが黒い煙をあげて猛火に包まれています。家の中にいた人たちは焼け出されてその身を焦がし、やがて力尽きて死んでいました。
 そう。ここはまだ現世の、あの村だったのです。
 なぜこんな状況になったのしょうか。てっきり私は死んでしまったものだと思ったのに。私を中心に全てが崩壊し、遠くなるにつれて形をもった物が存在しているんでしょうか……。
 まるで世界の全てが私を置いて消えてしまったかのようです。
 やがて状況に思考がついてくると、なぜこうなったかが理解できました。体があまりにも軽い。まるで貯めていた何かを全て放出したかのような感覚。つまり、私は魔法を使ったのです。私に近づきすぎた人たちはその身を消失させられ、多少離れていた人たちはその身を焼かれて形だけは残すことができた程度でした。形と言っても黒くただれた黒焦げの物ですけど。せめて神父様が持っていたベーメルの指輪だけでも手に入れたかったです。この村は私が滅ぼした、ということでしょう。母が私に魔法を使うな、と言っていた理由をまざまざと見せつけられた気がします。こういう結果になるからだったのですね。破壊と消滅と惨状しか生み出さない力。人が使うには大きすぎます。
 ふらつく足でどうにかして立ち上がり、村中を徘徊すると被害を受けていない家は一切ないということが改めてわかりました。村人たちに情は一切なかったので哀しくはありませんでした。少々グロテスクに死んだ人が多すぎたので目をそらしがちでしたが、不思議と慣れてきて――
 不意に、金属が光を反射する眩しさが目に飛び込んできて、その光源が気になったので近寄ることにしました。真っ赤な火の明るさが強すぎるせいで、金属の小さな光なんて見れるはずがないのに、たまたま見つけることができました。その付近に行ってみると、一つの集団が折り重なる死体となっているのがわかりました。あの騎士たちとはまた違う団体のようです。彼らは同じ服装をして恐らくなんらかの仲間意識を持った人たちだったのでしょう。そして、その中の一人が光源を放っていました。
それは男の人がペンダントとしてつけていた小さな指輪でした。ペンダントとしてはそれ一つだけではあまりにも不具合なバランスです。男の人は当然息絶えていて、腰から下半分がなくなってそこから臓器が零れおちています。恐らく建物が崩れたときに巻き込まれたのでしょう。見るも無残でした。男の人の顔を見て、確かな既視感が胸中の隅に生まれました。見たことのある顔。死に顔だから判別はできませんし、なんとなくですけど……背筋の下の方からぞわぞわとする感覚がにじり寄ってくるのが気になるつつ、おもむろにそのペンダントトップになっている指輪に手を伸ばしました。指輪は熱を持っていてかなり熱かったです。しかし焼ける肌が他人事のように思えてなりませんでした。その模様を見たとき全身に震えが走りました。それは私の持っている指輪と瓜二つだったのです。そして、あの神父様が持っている物とも同じであると言わざるをえません。
「この男の人が……ベーメル?」
 じゃあ、あの神父様が殺したという男の人は、指輪は、まさかその話自体が、
 虚言、だったということ――。
 しかしあの指輪は見間違いようのない、同じ物。
 いや、もしかして同じものだった……だけ?
 それならわたしがしたことは。
 無意識に全てを壊したことは。
 ああ虚言に騙されたこの惨状。
 ああ目の前に転がるこの死体。
 やっと巡り合えたベーメルは既に息絶えていて、愛することもできず愛されることもなくて。愛する者を、ベーメルを私が殺したという事実が、罪悪感が全身を浸食して――思わず私は泣き叫びながらその変わり果てた骸を抱きました。
 ベーメルとの約束と別れ。
 母親との約束と別れ。
 運命の皮肉。
 私とベーメルを引き合わせるきっかけとなった銀の指輪。
 反転した幸運な運命が私に突き付けた残酷な事実。
 いろいろなことを考えました。
 今日まで生きることができた唯一無二の理由が、目の前で崩れ落ちてしまいました。
 そして、
 あの火事の被害を被らずにまだ花弁の付いていた白い花を一つ拾い上げ、瞼を下ろした彼の胸の上に優しく置きました。次に両手を胸の前で繋いでベーメルの冥福を祈り、ベーメルの懐にあった鋭い短刀を自分に向けて構えて、
 やがてそれは私の喉を貫き、盛大な血しぶきを上げました。
 
 ――最期、朱色に染めあがった花を死に際の光景にして、私は静かに息絶えたのでした。





 まだ眠れないみたいだ。月光の下で風に当たる。
 次の日にはアリスを助けださなければいけない。火刑台に干されるようにして、その身を焼かれていく彼女をどうにかしてあの神父から助け出さなければいけない。今まで幾度となく僕ら、義賊の行動を妨げてきたあの神父はどこから情報を得たのかは知らないが、アリスを人質にとった上で僕らを皆殺しにしようと目論んでいるのだろう。僕とアリスの関係を象徴する指輪まで真似て作りやがってあのクソ神父。許せない。僕たちを貶めようとすることはわかる。しかしまったく関係のないアリスまでを巻き込んでしまうのには目をつぶることはできない。約束は守る。追われる身でありながら義賊としての活動を両立させなければいけないので、なかなか会いに行くことができなかった。
 でも、やっと再会できる期待に胸が躍る。感情が灼熱をはらんで煮えたぎる。戦線に赴く前の鼓舞された騎士はこんな気持ちになるんだろうか。今の僕は囚われた不幸な姫様を助ける一人の少年だ。故郷の愛する妻を守るために戦へと出陣する騎士に似ているかもしれない。こんな状況、物語の中でしか味わえないだろう。
 銀の指輪を手の平の上に乗せる。金属特有の光沢が眩しくてが僕の目を細めさせる。虫たちは町の活気が静まりかえったのを見計らったかのように、音楽隊のように騒いでいる。僕らは二人で手を繋いで生きていく。神様が僕とアリスを引き合わせてくれたのなら、再会も運命に結び付けれたものであるはずだ。白い花を摘み取って、衣服の内側にあるポケットに挿しておく。
 そう、再会の嬉しさをアリスと分かち合うために――




END



公開日:2010,11,10


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