行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、
 よどみに浮かぶ泡沫は、且つ消え、且つ結びて、久しくとどまりたるためしなし、
 世の中にある人と住家と、またかくの如し。
 ――――鴨長明





 雀の飛び交う鳴き声を耳にして、意識も虚ろに朝起きるとまず、身なりを整える。宙に漂うほこりが朝日に照らされて、光の粒子に変化したような錯覚を覚えた。襖を開けた向こうには眩しい残光。腰に差した2本の剣、長い鞘と短い鞘がぶつかり合って耳障りな金属音をたてる。寝ている人を起こしてしまわないよう足音に気を配るけど、鞘同士がぶつかるので少し気を配るのが馬鹿らしくなる。けどそれは妥協してやっぱり、板床に忍び足を擦らせた。
 ここは幻想郷(げんそうきょう)と呼ばれる、人と人外の者が混在する一つの世界だ。不老不死、妖魔、吸血鬼、死神、妖精などなどいろんな種族がいる。もちろんさっき言ったとおり、普通の人もいる。争いの渦中をもがく様に必死に生きている人がいれば、平和的に暮らしている人もいる。そんな世の中。
 時間をかけてすねまで丈のある革靴を履き、目の前にある庭へと足を伸ばす。大木の前で足を止めて深い呼吸で心を落ち着かせ、抜刀の音を立てずに長刀を鞘から抜き、正面に構えた。
 その刀身は身の丈半分以上あり、小柄なわたしが扱うには長い。けれど、爺から受け継いだ日本刀の一つであり、日々愛用しているものでもある。それはわたしが少女のような身柄をしていることに対する僅かながらの背伸びで、ささやかな抵抗なのかもしれない。
 入母屋造りの、和風庭園と程よく似た白玉楼(はくぎょくろう)という土地。人が死して後、訪れる冥界とも言える場所。幽霊や亡霊がいる。見飽きるほど石畳の階段を上り、うんざりするほど鬱蒼と茂る森林を傍目に抜ける。すると、広い庭園目の前に広がる。こんな広さが森林地帯のどこに収まっているのかと不可解になるほど広大だ。左右を見渡して間口の終わりが見えてこないのがその広さの証明になる。特に派手な彩色や華美な飾りを施しているわけでもなく、館自体は地味だ。しかし屋敷の周囲には万年咲き誇る桜が何本も並んでおり、見物しようと来る者が絶えない。と言っても、人の身で来れるほど便利なところに位置していないのだけれど。
 長刀を握ってもう一度深い呼吸をして大きく息を吸い、止めた。一瞬、強い風が吹いて木々がざわめき、わたしの肩に触れていた銀髪が翻る。気が散りそうになるがしかし、微動だにせず意識を集中。しばらくすると数枚の木の葉がひらひらと舞い降り、妖夢の目線と同じほどになる。その刹那、木の葉は真っ二つになり、妖夢は音もなく長刀を鞘に収めていた。
 「ふうっ、今日も好調」
 これをしないと一日が始まった気がしない。本当は素振り千本でも軽く済ませておきたいけど、わたしの主である幽々子様が朝から汗だくの妖夢なんて見たくないと言っていて、それ以来止めることになっていた。
 朝の修練はいったん止めて、長刀は大きくて生活するときに邪魔なので自室に片付ける。多分、幽々子様はまだ寝ているので、今のうちに朝食の仕込みを今のうちにしておこうかなと思い立ち、台所へ赴く。本来、食事の世話係はわたしではないのだけど、なぜか幽々子様の料理だけ別にわたしが作ることになっている。他の従者には別に食事を作る係がいて、そっちのほうで全体の食事を作っているといった感じだ。別段わたしは料理がうまいというわけじゃないんだけれど。ちなみにわたしは幽々子様と一緒に食事を採るので、自然と二人前以上は作っている。まあ幽々子様は大食らいなので、いつも多めに作っているんだけど。
 縁側の途中に幽々子様の部屋があるので、一応起きているか確かめるために襖を開いた。そこには布団の上に安座して、俯いている幽々子様が居た。
 ん、幽々子様こんなに髪長かったかな……でもちゃんと顔つきや体躯は幽々子様と変わりないし。って、立ち止まってたら変だ。とりあえず挨拶しよう。
 「おはようございます幽々子様。め……じゃなくて、今から朝食作るんでちょっと待っててくださいね」
 珍しく早起きですね、という失礼な言葉を飲み込む。
 返事を待っていると幽々子様はなぜかこちらに怪訝な視線を送り、布の擦れる音と共に立ち上がった。そこからが信じられない行動だった。小さな棚の上に置かれたかんざしを手に取り、普段とは全く違う鋭敏な動きで一瞬で妖夢につめより、喉元にかんざしの鋭角な部分を押し当てる。
 わたしは驚いて目を見張りながらも、無意識に腰の脇差の柄を握り、鞘から刀身を抜こうとする。鯉口を切って注意を促す余裕はなかった。幽々子様は空いた右手で脇差を逆に鞘にしまうよう押し込む。妖夢に抜刀させないようにした形だ。
 幽々子様の声色はとても低かった。
 「あなた、何者」

 「え、いや、妖夢ですけど……」
 突然の質問に空いた手をばたばたと振る。幽々子様の視線は冷たく据わっていて、迷いなく敵意のみでわたしを捉えている。
 何の冗談だろう。寝惚けてるのかな。早く離して欲しい。
 こんな状況になっても慌ててないわたしは多分、事態の深刻さを全然呑み込めていなかったんだと思う。
 「妖夢なんて知らない。あなたはなにをしにここに来たの。金品財宝はそんなにないわよ」
 「え、ええっと幽々子様……何かの冗談ですよね?」
 「冗談でかんざしを首元に当てる状況があるのかしら」
 そのかんざしは私の外皮を容易に貫き、鮮血を畳の上に散らすことになるだろう。たとえ非力な幽々子様だったとしても、そのかんざしは簡単にそれができるようになっている。幽々子様の態度がいつもと違うなと頭の上に疑問符を乗せ続ける。さっき感じた怪訝な視線は敵意だったのだし。
 「いや、ないですけど……」
 「柄から手を離しなさい。口を開いてもダメよ」
 脇差の柄から手を離す。
 幽々子様が起こす揉め事は今に始まったことではないが、今回もそういう演技をして困らせたいのかな? それにしては今回は特別質が悪い。悪意ではなく、敵意を込めている。それにこの演技を止める気配がない。今の幽々子様はまるで酷く吹雪いている雪原に一人、冷ややかな目つきをして佇んでいる雪女のようだ。
 「もう止めてください幽々子様」
 「腰の革帯を外しなさい」
 「……はい」
 言われたとおり脇差を固定するための革帯を外し、床に落とす。幽々子様に変装した誰だという線を疑ってみるが、幽々子様の姿形は真似ることが出来ても、この凄まじい妖気は他に類を見ない。普段は怠けているが、いざという時だけに見せる重厚さ。対峙しただけで感じるこの屈服感。それは幽々子様と同等の力を持つ妖怪でもなければ放つことが出来ない気配だ。そのような者はこの近辺にいない。
 普段は隠然としていて幽々子様自身が押さえ込んでいる妖気が顕然としている。わたしはどうしてこういう状況になったのか全くわからず、ただ硬直するしかなかった。全身を鎖で雁字搦めにされ、身動き一つ許されない感覚が四肢を襲う。
 幽々子様はわたしと半歩分の距離を置き、口を開いた。
 「目的は」
 「幽々子様の様子を見に来ただけですけど」
 「その幽々子様っていうのはなに。たしかにわたしは幽々子だけど、様付けされる覚えはないわ」
 「それは――」
 その直後、幽々子様の右隣で空間に一筋の横線が見え、それが人間の瞼が開かれるかのように上下に広がる。その広がった空間は黒と紫がうねっていて、得体の知れない生物のような何かがある。そこから一人の女性がそのひずみをまたぐようにして現れた。
 「あら紫」
 「珍しく朝早くから来てみたんだけど、なに? この状況」
 「なにって、敵対中よ」
 彼女は八雲紫(やくも ゆかり)という方で、幽々子様の古くからの友人だ。なんでも生前からの付き合いらしい。幽々子様と同じように不老不死。わたしは半人半霊なので、ゆったりと年をとる。寿命は人間の何倍もあるけれど。
 白い布に赤い紐を付けた頭巾を浅くかぶり、胸の辺りまである金色の髪は左右で結んで、前に垂らす。フリルのついた紫のワンピースを着て、ゆったりとした服装をしていて、その立ち振る舞いはとても悠然としたものだ。
 「あら本当。でもあなたのところの子じゃない?」
 「ああ、半人半霊なのね。わたしのところの子に彼女はいたかしら」
 何を言っているんだろう。紫様も幽々子様もわたしのことは知らない素振りだ。昔から幽々子様と生きてきたのに。そりゃあ庭師になったのは十年ちょっと前の話だったのだとしてもこの屋敷にはその数百年前からいる。
 幽々子様は危険がないと判断したのか、かんざしを棚の上に置く。
 「あなた、名前は?」
 「……へ?」
 素っ頓狂な声をあげたが、一瞬で我に帰り質問に答える。
 「妖夢です。魂魄妖夢」
 「覚えがないわねぇ……」
 幽々子様は演技が得意ではない。おやつをつまみ食いしたことを誤魔化すときには頬に食べかすをつけっぱなしだ。得意下手以前にたぶん、必死に誤魔化す気がないんだろう。だからこれだけ一貫してわたしのことを知らないと言い張るのなら、もしかしたら幽々子様は何も嘘をついていないのかもしれない。
 この状況を見るに見かねたようで、紫様は痺れを切らして言い放った。
 「幽々子、いつまでつまらない演技やってるの」
 「演技? あなたまで訳のわからないこと言うのね」
 「なにをすっ呆けてるのよ。妖夢はあなたの従者でしょうが」
 紫様は幽々子様の頭巾をぽふっと叩き、苦笑いをする。
 「ほら、『よーむぅ、おなかへった〜』って言いながら妖夢に抱きつかないの?」
 「……紫、若作りしたい気持ちはわかるけど、年相応の事してないと」
 でも本当のことだ。いつもなら幽々子様はわたしに料理を作るようせがむ。しかし今の幽々子様はわたしから数歩離れて非常に警戒していた。
 「幽々子、まさか本気で言ってる?」
 「本気って……さっきから会話がかみ合わないわね。こっちはそこの妖夢って子はしらないし、従者なんて元々いないわよ?」
 「……ゆ、幽々子様? 何を言ってるんですか?」
 寝ぼけているにもほどがある。けど、これは寝ぼけていないんじゃないかという想像にかられる。頭を軽く振ってそれを掻き消した。
 「なにって、事実を述べたまでなんだけど。だから、あなたのその幽々子様っていうのは何?」
 「幽々子、本気でそんなこと言ってるの?」
 「幽々子様……わたしは、あなたの従者ですよ」
 数秒の間、誰も口を開かず、ただその場で硬直していた。
 周囲に誰もいない湖畔で、一つの石ころを投げ入れた音だけを耳に入れてそれが消えた後の、空虚感。時間が昆虫の標本のように磔にされて、動けなくされたかのような、緊張感。
 そんな、とても一言では形容しがたい複数の感情がこの和室全体に伝わっている。幽々子様は黙ったまま俯いて、何も言おうとしない。何を思案しているのかまったく読めない。紫様は突き抜けそうなほど鋭い視線で幽々子様を睨みつけている。わたしはその場に居たたまれなくなり、この場から逃げ出したくなりつつも、自分で自分の指同士を絡ませて、遮二無二にその気分を誤魔化そうとしていた。
 そんな中、幽々子様一人がこの重い空間でぽつりと、つぶやく。
 「何かが起こっているようね。それも――わたし自身に」
 幽々子様は頭ごなしに否定することや、意識の食い違いを嘆いて狼狽せずに、泰然自若と状況を飲み込んだ。
 わたしは、久しぶりに領主らしい姿を見たな、と失礼ながらも感心した。



 「きおくそーしつぅ?」
 紫様の発言にわたしはかなり間の抜けた声をあげてしまったことに気づいて、反射的に口をつぐんだ。すぐに自分に弁解をする。
 「あっ、すす、すいませんっ」
 「別にいいわ。わたしだって驚いてるわよ。幽霊って記憶喪失になるのね」
 その感想も微妙にずれているような、と思いつつ湯飲みに昆布茶をいれる。
 せっかくみんなで集まったのだからという紫様の提案によって、白玉楼で食事をとろうということになった。わたしと幽々子様、紫様でちゃぶ台を囲んでいる。
 ちなみに紫様は普段は寝てばかり。しかもこの白玉楼には住んでいないのでこういう状況に居合わせることないのだが、それについて尋ねてみると
 「最近寝てばかりだから昼夜反転しちゃうのよねぇ」
 とか言っていた。最近じゃなくていつもじゃないかという疑念は気のせいかな。さすがに親友の緊急事態だから気を使っていて、今の発言はその照れ隠しなのかもしれないけど。
 そんなことを考えている隙を見てか、幽々子様がわたしの食べ物へと箸を伸ばしているのが見えた。
 「あっ、それわたしのお惣菜ですよっ」
 「んぐんぐ。いいじゃない、あなたはわたしの従者なんでしょ?」
 「いやそうですけど、それがどう――」
 「あなたのものはわたしのもの。わたしのものはわたしのもの」
 「は、はぁ……」
 どんな利己主義ですか。あと箸で人を指さないでください。と心の中でだけ反論しておく。下手に発言してさっきのように不機嫌になられたら困るし。
 「記憶喪失になっても食い意地はかわらないんですね」
 「そういえばそうね。あ、幽々子、ちょっと質問があるんだけど」
 「なに? 体重、顔のしわ等の質問以外なら答えてあげる」
 「……体中に深いしわができてもよろしくて?」
 「ああっ、こんなところでスペカ使わないでくださいっ」
 微妙に口調の変わっている紫様がスペカを取り出すのを傍目に、幽々子様は優雅に茶をすすっていた。
 「なにわけのわからないことやってるのよまったく」
 「ふ、ふふっ。わたしにこんな強い悪態をついてくる毒舌な幽々子は実に久しぶり。楽しくなりそうねぇ……!」
 紫様は対抗心をたぎらせていた。幽々子様はその状況にそっぽを向き、話を戻す。
 「で、質問は?」
 「……ふん、今日のところは止めておいてあげるわ。それで藍や橙のことは覚えてる?」
 「ええもちろん。あなたまた彼女に仕事押し付けてここにきてるんでしょう?」
 「そりゃそうよ」
 藍さんと橙さんというのは紫様に仕える式神だ。紫様の式神が藍さんで、藍さんの式神が橙さんという順番になっている。
 主に雑務をこなすのは藍さんだ。もともと紫様が受け持っている仕事を藍さんが押し付けられている。
 「で、それがどうしたの?」
 「ほかに幽々子が忘れた奴はいないかと思って。どうやら今のところは妖夢だけみたいね。かわいそうに……」
 「いえ、お気にならないでください。そんなことより幽々子様の記憶って戻るんですか?」
 「脳に異常が起きてなければね。いや本当は異常が起きたからこんな状況になっているんだけど、それとは話は別にってこと。まあ、幽霊にそんなことが起きるかなんて知らないのだけれど」
 これからのことを考えると互いにため息がこぼれた。
 さっきから幽々子様は機嫌悪そうに怪訝な視線を送ってくるし。わたしは愛想笑いで誤魔化すしかないし。
 「記憶喪失、ですか。どんなものが原因となるんでしょうか」
 「心のストレス、強い外傷、薬とかがあるわね。あと、お酒の飲みすぎもそれに入るのだけど――」
 二人して幽々子様を見合す。紫様が疲労感漂う表情をし、わたしにそれが伝染してゆく。
 「お酒で済む話だったらどんなに楽か……」
 とりあえず、外傷によって記憶が飛んでしまったんだろう。ほかに理由は考えられない。幸いなのが言語に障害は起きていないことだった。
 「幽々子、なにか変な感覚はない? こう、何かを忘れてるんだけど、それが何かがわからなかったり、なにかが物足りなかったりとか」
 機嫌を悪くしたまま幽々子様は乱暴に和菓子に爪楊枝を突き立て、一口でほお張って答える。
 「ふぃらふぃらふうあ」
 「口の中無くなってから話しなさい」
 「んぐんぐ、ごくん。いらいらいするわ」
 「ほかには」
 「ない」
 紫様はしばらく顎に手を当てて思案する姿勢をとった。
 「何がいらつくのよ」
 「何かが、足りない。もやもやがあって、その先にある何かを掴み取りたいんだけど、わたしの手は空を切るばかり。例えるなら――そうね、たくあんのついてないごはんかしら」
 幽々子様の苛立ちを隠さない機嫌な顔つきからほんの一瞬、憂いを醸しだす目つきになるのが垣間見えた。
 「機嫌が悪いのは自分にとって大切な何かをなくしたからじゃないかしら?」
  紫様はわたしへウインクする。
 その仕草にわたしは少しどきりとした。
 「まあ、それも一理あるかもしれないわねぇ。ええと、妖夢だっけ?」
 「は、はいっ」
 「わたしの立場とあなたの立場、その関係の説明をお願い」
 「はい。幽々子様はこの西行寺家の主で、わたし、魂魄妖夢は幽々子様の従者です。ここで庭師として仕えて、幽々子様をお守りする仕事も受け持っています。基本的に召使いのような立場なので、なんでも申し付けてください。」
 「そう」
 幽々子様が少し頬を赤らめながら、返事をしたように見えたのは気のせいか。
 「認めてないけど――ごはん足りない、おかわり」
 「はいっ」
 そうじゃないかと考えると、妙に気分が高揚していった。




公開日:2010,10,11


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