昼下がり、お日様が熱をこれでもかと地面に押し付ける頃。
 あれから数日が過ぎて、無秩序にかき乱された一定のリズムで繰り返されていた日常は、何もなかったと言わんばかりの様相を見せた。明日も明後日も、時間はだれにでも無慈悲にやってくるのだから、当たり前のことだ。わたしたちが混乱したのも初めだけで、次の日にはなんとか順応性を持って生活できていた。ただただ、いつもと変わらない日々が平等にやってきた。たったそれだけの事。
 ただ一つ、幽々子様がわたしのことを忘れてしまったということ以外は。
 幽々子様はわたしを従者として認めたようだ。仮だけど。そして利発的に行動はしないにしても、あまり気の緩みまくった姿を見かけなくなった。以前の楽しげな気分屋だった幽々子様の部分は、ほとんど消え去ってしまったと言っていいのかもしれない。
 記憶を失くすより前、わたしは幽々子様がだらしない振る舞い、常識をわきまえない行為をするたびに注意をしてきたけれど、ある意味ではその忠告を理解し、実行して過ごしている、ということになる。
 嬉しいのは事実で、どこか寂しいと思惟するのもわたしの内情だ。それが自分でも酷く哀れに思うのだけど、その感慨を拭い去ることは出来なかった。人と同じように感情を持つわたし達といった存在は、人のように務めて不変を望み、できるかぎり変化することを嫌うということなのか。いくら思考を巡らせても言葉で表せる答えは浮かんでこない。少なくとも幽々子様がわたしの言う事を聞いてしっかりした立ち振る舞いをし始めた……というわけではなく、単に人が変わったかのようになっただけ、というのはわかった。
 幽々子様はわたしに頼りはするが、心から甘えることはなくなったのは多分、依存の度合いが変わったんだと思う。
 竹箒で落ち葉を集める。花壇の雑草を抜く。庭木の形を整え、不要な枝を切る。集めた落ち葉と雑草と小枝は焼いて灰にして、出来れば肥料にする。これらの仕事をこなすと大体、日暮れにあたりなる。今は盆栽に水を撒いている途中だった。単純な作業だが、屋敷の広さに比例して庭の広さも、普通とは段違いに広いのでこれだけに結構な時間がかかる。庭全体を一通り掃除し終えるには、だいたい数週間かかってしまう。
 「妖夢」
 ふと気づけば、隣で紫様が日傘をさしていた。
 「何でしょうか」
 「あの幽々子、まるであなたに会う前みたいだわ」
 「えっと、どういうことですか?」
 落ち着いた生活を送っていることを指しているんだろうか。
 「あの暴食なところと怠け者なところは今まで通りの性格ね。でもなんか、今までなく凄い陰気な気配でしょう? 昔の幽々子は常に心を預けられる存在が屋敷にはいなかったの。わたしだっていつでも傍にいたわけじゃないしね。それでいつもギスギスした感情……というか、負の波動をそこらじゅうに撒き散らしていたのよ」
 確かに幽々子様の行動を鑑みると、見ず知らずの他人は信用せず突き放していた。それは害のなさそうな雰囲気をした人でも有無を問わずだ。始めわたしに会ったとき、首筋をかんざしで刺そうとしたように。他にも万年咲く桜を見物する人が白玉楼へ訪れたが、八割がたは知らない者だったらしく追い返していた。それに対して紫様は親友なので、敵視しているわけではない。それでも少し口が悪くなっているな、と反芻する。
 「でもあなたに会って、あなたが幽々子にとって甘えられる存在だと気づいてから、ずいぶんと邪気めいたものが抜けたわ。あなたは幽々子を心服し、幽々子はあなたを愛慕する。そんな関係だった」
 ちょっと悔しくて嫉妬したのよ? と紫様は付け足す。
 「だから今考えてみると、幽々子があなたと出会ったから、こんな丸い性格になれたんじゃないかと思うのよねー」
 幽々子様もそうだが、紫様も頭の回転が速く、非常に機転が利くことを改めて感じた。わたしは自体を飲み込んでいるので精一杯だったのに、紫様は幽々子様がどう変わったか、さらに過去の幽々子様との共通点まで見出していた。
 「これが大人の余裕ってやつですか……」
 「ん? どうかした?」
 「い、いえっ。なんでもないですっ」
 「あらそう。で、幽々子がもとに戻るかどうかは一応、あなたに懸かってるのよ?」
 「えっ?」
 今までの話をまとめるとそうなるのか。幽々子様が変わるきっかけになったのがわたし。なら元に戻るきっかけになり得るのもわたしということらしいし。
 事の肝要さに、さざ波のような身震いが全身を襲う。
 「せ、責任重大ですね……っ!」
 「でも、あまり身構えずに自然体でふるまうのが、一番いいのだけれど。ねぇ、幽々子?」
 紫様は大人の雰囲気をまとった妖艶な笑みを浮かべながら振りかえって、日に晒された廊下で不機嫌そうに腰を下ろしている幽々子様を見た。いつの間に来てたんだんだろう。
 「なによう」
 「そんなに妖夢を敬遠しないでに、こっちにいらっしゃいな」
 「べ、別にそんなことしてないわよ。たまたまここを通りがかって、今さっきあなたたちが話してるのを見つけただけっ」
 「そう? とりあえずこっちにいらっしゃい」
 ちょいちょい、と幽々子様を手招きする。しかし幽々子様は動こうとしない。
 「まったく、仕方のない子ねぇ……」
 紫様は幽々子様のほうへ近づき、二人で話し始めた。聞き取るにはけっこう距離があるので、とぎれとぎれにしか耳に入ってこない。あ、幽々子様を扇子で叩いた。なんだか紫様が子を叱る母に見えてきて、少し微笑ましくなる。
 数分経って、紫様は幽々子様を引きつれてわたしのそばに戻ってきた。相変わらず口をヘの字にしている。
 「ということで、おつかいに行ってきなさい」
 「はい?」
 紫様は、いろいろなものを入れるための頭陀袋を、わたしに手渡す。
 「買うもの一覧はここに書いてあるから。よろしく」
 続いて買うべきものを記した紙を手渡された。
 「幽々子、あなたも行きなさい」
 「ええー、めんどうくさい」
 「どうせ暇でしょう。よく妖夢と買い出しに行ってたわよ、あなた」
 「え、そうでし――」
 刹那、紫様がわたしの口をふさぐ。
 「そうなの? じゃあ行ってもいいけど……」
 庭師と護衛の任がわたしの仕事だが、ほかに買い出しという責務もある。だが幽々子様が付き添っていたということはない。なんでこんなことをしたんだろう。
 (幽々子とあなた、未だに二人きりで話したことないでしょ)
 (ああ、そういうことですか)
 紫様が耳打ちで理由を話してくれた。  とても珍しいことだが紫様は最近ずっとここにとどまっている。事情が事情だし、親友のそばにいるのは当然のことだろう。しかしそれだけでは記憶は戻らない。わたしの記憶が消えたのだから、思い出す可能性が高いのはわたしと会話することだ。さっきの紫様との話のとおり、わたしが最も記憶を取り戻すきっかけになり得るのだから。
 「ありがとうございます、紫様」
 「あら、別に感謝されることじゃないわよ。わたしはこの後寝たいからあなたに頼みごと押し付けただけ。幽々子はそのついでよ」
 「なるほど。じゃあそういうことにしといておきますねっ」
 ふっと優しく口角を上げて笑みを浮かべると、紫様も同じように微笑んで屋敷へと踵を返していった。





 薄暗く、湿り気が心に溜まっていくような感覚。事実ここは薄暗くて湿っぽい。
 天を仰いでもそこに空はなく、連なる岩根の壁が続いているだけ。眼界が良好ではないので奥行きはよくわからない。しかし、音が早めに反響してくるということはそんなに奥は深くないはず。
 言葉はなく、まるで口を縫い付けたように沈黙を貫く幽々子様。
 そんないつもと違う幽々子様にやっぱりわたしは怖気づいていて。
 なにもできていない自分が情けなくて。
 自分を哀れみ、嘆いていればどうにかなるわけでもなくて――
 なぜここにいるのかを深く反芻することにした。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 食料の買い出しと紙に書いてある物を買うのを兼ねて、下町へとやってきた。
 木製の、開放的な店屋が軒並み並び、かなり大きな市場が奥に広がっている。
 人々が往々と闊歩し、商人の意気の良い声や、子供達が無邪気にはしゃぐ様子を垣間見ることができる機会だ。
 人々の喧騒が途切れることなく聞こえてきたり、暴力沙汰の喧嘩があれば周囲はもっとやれと、はやし立てる。
 そんな、いろんな意味で活気にあふれた町だ。
 服に縫い付けられた袋状の小さな物入れから買うべきものを記した紙を取り出す。
 「よ、読めない……」
 枇杷、麝香、薄荷とか当帰とか……よもぎと桑の葉って書いてあるのはわかるけど、ほかはほとんど読めない。
 「これは薬草? どこで買うのかしらこんなもの」
 幽々子様がわたしにぐっと近づいて、その紙に目を通す。なにか良い香りがするなと思ったら、三色団子をかじりながら見ていたからだった。どうやら草団子の匂いらしい。
 「って、幽々子様、いつの間に買ったんですか?」
 「買う? ……ああ、そういえば物を買うとき金を払わなければいけなかったわね」
 「ええっ、払ってないんですかっ!?」
 「まあね」
 「何を自慢気にっ」
 「うるっさい。むこうの都合なんて知ったことじゃないわ」
 幽々子様が勢いよく三色団子に噛り付いていると、後ろから体躯のいい男が大仰に足音を立てて駆け寄ってくる気配を背中に受けた。多分どこかの店の主だろうなと察する。
 「おいそこのてめェ!」
 「わたし?」
 幽々子様がきびすを返して、少し首をかしげて自分を指差す。男は重圧のある声で罵声を響かせた。男は幽々子様に威圧的な行動をしている。
 「もう早く行きましょ」
 「おい、聞いてンのか!」
 あまり態度の良くない言動が一方的に飛んでくる。もっとも、悪いことをしたのは幽々子様なので言われる筋合いはあるのだけれど。でもそれを黙って無視するほど幽々子様の性格は日和ってはいなかった。たちまちに表情が険しくなり、全身に敵意の膜を張っているのが嫌でも伝わってくる。
 わたしは恫喝の意味を込めた刃物のように鋭い視線を店主に向ける。
 「妖夢、こいつ殺していい?」
 「いえ、幽々子様の手を煩わせることはありません」
 「金、払ってねェよな」
 さも当たり前のことをしたかのように店の三色団子を盗ってしまったのだから激昂されるのも仕方ないと思うけど。

 ……これは一つ、芝居を打ってみよう。

 がま口財布から三色団子一個分に相当する金額を手早く取りだし、店主にすっと近づき金を手渡す。
 「これで失礼します。釣りは結構です」
 男に難癖をつけられないよう、矢継ぎ早に去ろうとする。
 「おい、ちょっと待て」
 しかし男はさっきの非行に許しを甘んぜず、上手に出た。
 「なんでしょう?」
 「これで許してもらえると思ったのか」
 「はい?」
 「これで済んだら同心はいらねェンだよ」
 同心というのはこの町の警察事務をする人々のことだ。
 怖気づかずに店主に視線を合わせたまま脇差の鯉口を切り、白刃を覗かせる。
 「それが、なにか」
 店主はその白刃を見――いや、たぶんこの脇差に刻まれている白玉楼の紋章を見て、表情を引きつらせた。
 幽々子様がいるということはこの町の皆が知っていることだが、姿を見たことがある者はほとんどいない。白玉楼は何の耐性もない人が近づけば、その妖気と死霊の気配にこころが疲弊してしまう近寄りがたい場所だからだ。容姿は噂話で知られている程度だろう。それが正しいとは限らない。しかし紋章は知っているものは多い。全ての死者を埋葬する墓にはそれぞれの家紋とともに、白玉楼家紋が刻まれているからだ。  たぶん、店主の目には天上人が悠然とそこに存在しているのだと感じるはず。まあ普通の人達とは一風変わった姿をしているから気づいてもよさそうだけど、どうやら異国のよそ者だと思ったらしい。
 「こ、今回は勘弁してやらァ!」
 とか
 「次はねェからな!」
 など、店主は及び腰といった様、というか情けない捨て台詞を吐けるだけ吐いて、逃げ帰っていった。
 紋章だけなら勝手に作れるので、この印が偽者でただの虚勢を張っているだけだと判断できなかったのかと思慮したが、どうやらあの店主は相当な小物だったということか。
 これを見た周囲の人達は彼の印象をだいぶ落とすだろうなぁ。ま、いっか。
 「さ、行きましょう」
 「あら、今のって私が悪かったのね」
 「まあ、そうですけど」
 「どうしてわたしの味方をしたの」
 「幽々子様の護衛をするのが仕事だからですよ」
 「それは、こちら側に非があったとしても?」
 「そうですね。幽々子様とその他大勢とでは、わたしは必ず幽々子様の味方をします。あくまで護衛役であって、教育役とか参謀役のような幽々子様に意見する立場の者ではないですし」
 でもこれはわたしが幽々子様にお仕えし始めたとき、つまり十年前の志だ。
 その数百年前からわたしは屋敷に住んでいて、そのころは今よりもっと幼かった。先代の庭師だった爺の仕事をわたしが受け継いだ形で今の状況がある。その際爺は悟りを開いたとかなんとかだと言って、白玉楼を去っていったけど。その後の消息はまったくない。
 閑話休題。
 十年前、護衛とは幽々子様を守るだけが任務であり、意見することは護衛ではないと決め付けていた。さすがに度が過ぎれば忠告することはあるけれど、いつもはかなり幽々子様をひいき目に見て行動していたのだ。
 具体的に言うと、わたしのすべきことは幽々子様に危害を加えたり相対する者たちから守ることで、道徳に基づいて行動を正すように説得したり、より良い策を提案することはわたしのすべき範囲から逸脱していると考えた。
 そんなことを、そんなあさはかな考えを行動の理念にしていたとき、幽々子様が言ってくれた言葉がある。それはわたしの持つ志を変えるよう命令した言葉。
 ――ならこれからはわたしが間違ったことをしたら、遠慮なく指摘しなさい。
 幽々子様がわたしのことを忘れたのだとしても、目の前にいるわたしの主が幽々子様である限り、あの時と同じ事を言うはず。
 そう、願望にほどよく似た思いを抱いて、わたしは十年前と同じ事をした。
 そして幽々子様は口を開く。
 「そう、ご苦労なことね」
 幽々子様が発した言葉。片言。それはわたしの行動の肯定。
 数日前の幽々子様と、今の幽々子様の感情は違っている、という強い認識を飢えつけられた瞬間だった。
 軽く世界が揺らぐ。目の前にいるのは幽々子様に程よく似た偽者ではないかと錯覚してしまうほどに。
 「……はい」
 「どうしたの。元気ないわね」
 幽々子様は濃い色の瞳でわたしの容姿をよどみなく捉える。
 主に心配される家来がどこにいる。わたしはそんなに脆弱だったか。こんなことで揺らぐ忠誠心じゃない。
 自分に渇を入れる。今まで通り元気に振舞おう。
 「そっ、そんなことありませんよ!? さ、行きましょう!」
 今までで一番明るい、そして醜い笑顔で先導する。
 「さて、こんなものどこで買えば良いのかしら」
 幽々子様はわたしの動揺に気づかないようで安心した。
 「ええと、とりあえずその辺の人に訊いてみましょう!」
 「ちょっと、紫から訊いてないの?」
 「店の名前と建物の外装については教えてもらったからわかりますが、道順は忘れてしまったらしくて……すみません」
 「境界ばかり使って位置だけ把握してるからかしら。まったく肝心なときに役に立たないんだから」
 紫様は境界、という物をいじって転移することができるのだ。今朝に紫様が黒混じりの紫から出てきたのがその能力にあたる。
 2つの小さな後塵が見えては消え、見えては消え、やがて人々の喧騒にのまれていった。



 買うものをすべて頭陀袋に放り込み、背負う。
 「こんなものどうするんでしょうね」
 「さあ? 怪しげな薬でも作るんじゃない?」
 紙に記されていた読めない漢字。枇杷はびわ、麝香はじゃこう、薄荷をはっかと読み、当帰はそのままとおきでよかったらしい。店の人に紙だけ見せて、物を揃えてもらった。品によっては粉末状になっていたり、毛むくじゃらの塊だったり様々だった。まあ、そんな草を専門で販売している店があったことが一番の驚きだったのだけど。ちなみに、麝香だけやたらと高かったのも記憶に新しい。今は薬草を専門で売っている場所で必要なものを買いこみ、町を出て帰路をたどっている途中だ。
 「ねえあなた」
 「はい、何ですか?」
 未だに呼び方は妖夢、ではなくあなただった。
 「どうしてわたしの護衛をしているの?」
 「え、どうしてっていわれても、当たり前のことですし……」
 理由がない、というわけではない。しかし今すぐ言えるはっきりとした答えを持ち合わせているわけでもなかった。
 幽々子様は一瞬なにかを言い淀み、
 「正直な話、白玉楼出てってもかまわないのよ」
 「え……」
 「出ていってもいい」
 もう一度言った。冗談ではない。真剣な眼がそれを如実に物語る。
 大気が、うっとおしいほど不快な水気を帯びて、わたしの頬をかすめる。それを合図にしたかのように水滴が地面と線を結んで、消える。しきりにそれを繰り返し、乾いた地面は小さな斑点をいくつもつけていく。
 「雨ね。そこの洞穴で雨宿りしましょう」
 小走りで目の先にある洞窟に向かう幽々子様。一瞬、足が地面に縫い付けられたようになって、そのあとかすかに震えている足で、無我夢中に追いかけていった。
 洞穴入ると小雨が本降りになり始め、この場所が隔絶されたかのような状態になる。
 足元や周囲の壁に触って、幽々子様は腰より少し低く突出した岩に腰をかけた。多分そこが湿り気を帯びていないかどうか確認したんだろう。
 わたしは肩から壁に体を預け、この鈍重な景観のように気落ちした胸中を探ってみる。  ――わたしが幽々子様に仕える理由、というものは実はないのかもしれない。仕事は爺から世襲制によってわたしに引き継がれたものだ。そこに事情はなく、ただ淡白に受け継いだだけ。その後仕事に愛着を持つようになり、そのまま今に至っている。
 ……さっきすらっと言えたら良かったのに。
 でも、
 幽々子様にとって、護衛というのは必要ないものだったのかもしれない。
 隣で付き添うことは、ただのお節介だったのかもしれない。
 根拠はある。今の幽々子様の喜んだ表情を見たことがない。いつも、据わった目つきをして、笑顔をみせない今の幽々子様からは感情を読み取るのは難しい。けど、好印象を持たれていないことは確かだろう。
 人の思考の九割が否定的な思考で満ちているという話を聞いたことがある。多少なりとも、腑に落ちなければ心に闇を抱いて、思考は否定に侵食されていくのだろう。
 結局、幽々子様はわたしを必要としていない。明らかに邪魔だと思っている。だから出ていって欲しい。そう言いたいのだろう。
 記憶を失った状況を目の当たりにしてから、臓腑の底でずっと溜めこんでいた感情が、悲哀が、ふつふつと湧き上がり喉下が熱気を帯びて、激情にまかせて押し寄せてくる。
 泣いては駄目だ。たとえ涙を零しても状況は変わらない。自分の弱さを晒け出して、同情を誘ってしまうだけ。それはひどくずるいことだ。
 別のことを考えて誤魔化したり、大きく口をあけて生あくびに見せかけて目の下をこすったりして、こみ上げる情を別のものに移そうとする。しかしうまくいかない。感情を押さえつけるための蓋はもう、その意味を失いかけていた。
 どうしてだろう。記憶がなくなっただけでわたし達の関係はこうも簡単に壊れてしまうのだろうか。わたしのことは幽々子様なりに考えを導きだした上でのことだったのだろう。でも、こんな結末に頷けというほうが無理な話だ。わたしは幽々子様に付き従う。幽々子様の手となり足となる。大げさな話、この体は幽々子様の手足を延長したものだと思っている。
 しかし、そんな感情はわたしからの一方的なもので、幽々子様が必要ないと思ってしまえば切り離せてしまう。そんなことはわかっていた。
 でも、
 どうしてこんなふうになってしまったんだろう。
 心が通じ合わない。一番近くにいるのに、とても遠くの存在に思えてならない。
 大地に打ちつけるような雨音が鋭利な刃物となって、わたしの自信を少しずつ削ぎ落とす。
 思考が混濁する。正気が保てていないのが嫌でも分かった。寒さを感じているのか、熱気を感じているのかわからない。
 「幽々子様……わたしのこと、邪魔ですか……?」
 気づけば何か、口をこぼしていたことに気づく。わたしは言ったことを自分で理解するのに数秒かかっていた。
 「さっき、紫と話したことなんだけど」
 さっきのぼやきへの返答を無視して、幽々子様は独り言がわたしに聞こえるようにつぶやき始めた。
 「未だにあなたがわたしの従者だってことは認めてないわ。別に一切信頼してないわけじゃないんだけどね。でも、そう紫に話したら怒られちゃって」
 ――拒否することを怒らないけど、それは妖夢がどういう子かちゃんと見極めてからにしなさい。
 「だ、そうよ。紫ってあんなにおせっかい癖だったかしらねぇ」
 出かける前に幽々子様が扇子で叩かれていたのはそういうことだったのか。
 嘆息を漏らし、面を上げてじいっとわたしを見る。
 「で、さっき白玉楼出てってもいいと言ったのだけれど、どうかしら」
 「…………」
 さっき宿っていた焦燥感にも似た不安感が、わたしの中に広がっていく。震える唇を動かしながら、わたしからではなく口がわたし以外の意思で動いているような感覚で話す。
 「……どうして、ですか」
 「わたしは昔のわたしじゃないから、あなたとの記憶がないし、記憶が戻るのを待ちたいって気持ちはわかるけど、どれだけかかるかわかったものじゃないわ。それならこんな駄目な主に仕えるより、一人で旅にでも出て過ごしたほうがいいんじゃない? って思ったのよ」
 やっぱりそうだ。幽々子様はわたしがじゃ……ま?
 一度冷静になってみる。良く考えると――良く考えなくても、思慮していたこととまったく角度の違った返答だった。
 「……ちょ、ちょっと待ってください。わたしが邪魔だからとかそういう理由じゃないんですかっ」
 「別に? あなたのためを思って言ってるだけよ」
 あっけらかんとした呟き。わたしのほうは、あまりのことに口をまるく開けていた。生きてきて一番の間抜け顔だったと思う。すぐに押し倒す勢いで詰め寄った。
 「ほ、本当ですかっ」
 「本当。ここで嘘をついて、事をはぐらかしても意味ないでしょ」
 確かに。
 でも、そうでも、そうだとしても――
 「気の回し方が、ヘタすぎます!」
 わたしのことを思ったのだろうが、明らかに逆効果だ。
 おかげでかなり否定的な勘違いをしてしまった。
 ――でも、原因はこちらにもあるのかもしれない。
 わたしは今の幽々子様の背後に昔の幽々子様と重ね合わせて、勝手に幻影を見ていた。幽々子様にとっては現在しかないのに、わたしは今を通して過去と現在の両方を見ていた。まあそうしないと、記憶を取り戻してもらうことを諦めたということになるから、当然の行動なのだけど。
 とにかく、結果としてそれが勘違いの一因にはなっていた。
 だから意志の弱い、あいまいで明瞭としない、勘違いさせるようなことを言ってはいけない。気兼ねせずに思いの丈をそのままに、はぐらかさずに叫ぶ。
 「わたし、一生、一生涯付き従いますから! そちらが嫌だ嫌だって言ってもずっと、ずーっと一緒にいますから!」
 わたしは自分の渇望だけ吐き出した。
 「そう」
 幽々子様は言った。
 「……わたしの側にいるのは大変よ?」
 「はい、わかってますよ」
 「なら主としてひとつ、命令するわ」
 すっと立ちあがり、凛と言い放った。
 「――これからはわたしが間違ったことをしたら、遠慮なく指摘しなさい」
 淀みのない、真剣な眼差しで。
 あの時聞きたかった言葉を今、言う。
 そして、
 幽々子様の言葉がすとんと腑に落ちたからなのか。
 堰堤で押さえつづけてきた情動が決壊したからなのか。
 急に目頭が熱くなるのを感じ、心の雨粒が輝いて、溢れ出した。
 すぐに、そっと包み込むような温かさを感じ、その優しさがわたしを纏う。
 わたしは声を上げつつ、幽々子様の着物の襟を濡らした。
 泣き終わったら、一つだけ言おう。
 物を買うときは必ずお金を払ってからですよ、と。



公開日:2010,10,11


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