光る雲母が混ざっている庭の土。しっかりとわたしが手入れした結果、落ち葉一つ見つけられない。井戸の底から水をくみ出すための大きな手動のポンプ。太陽からふんわりとした日差し。目を凝らせば青い空にはまだ薄く月の輪郭が見える。
 目の前には角材、西瓜、目隠しした幽々子様。
「よしっ、今日も快晴。やるわよーっ」
「あまり無理しないでくださいねー」
 某国の夏の風物詩に西瓜割りというものがあるらしい。なんで夏だけ浜辺で西瓜を割るんだろう。ちなみにここは浜辺ではなく白玉楼。衛生面よろしくないし、普通に包丁で切り分けたほうがいいんじゃいかと思うのだけど。
 幽々子様が角材を地面に突き立て、その頂点に頭を乗せていた。角材を軸にしてぐるぐると回り始る。目が回りそうだなぁ。
のんきに言っているけれど、やっていることはなかなか重労働である。
「いーち、にー」
 ぐるぐるぐるぐるぐる。
「さーん、しー」
 目を凝らせば見える程度の土埃が立つ。徐々に角材が大きく波打つように揺れて、足元がおぼつかなくなっていく様が見て取れた。
「ごー……あっ」
 角材に頼り切って回っていたためか、勢いよく軸がずれて体勢を崩し、幽々子様は地面に倒れる。
「えーと大丈夫ですか?」
「ううっ、気持ち悪いー……」
「まったく、こんなことして何にもなりませんよやっぱり」
「趣向を変えてみたのよ……あー、視界がぐねぐねしてるー」
「そりゃそうですよ」
「ぶっ、妖夢がデブに見えるわっ。こ、これはつぼに入りそう……っ」
 なんか、ただの酔っ払いが言うことと大差ないような。
「はぁ……とりあえず治るまで目をつぶってじっとしててください。その間にわたしはそこの西瓜を切り分けときますから」
「冷やしてからねー」
「はいはい」
「ちなみにね」
「なんですか?」
「本当の西瓜割りって、べつにぐるぐる回る必要ないのよ☆」
 幽々子様はそう言って人差し指をピンと立てた後、顔色をいっそう悪くして、大の字になって寝転がった。服に砂が付いてしまうけどもう指摘する気が起きない。軽口を叩いているけれど、実際頭がくらくらして辛いのは確かだろうから。
「顔色と台詞の調子が合ってませんよ。もう少し御身を大事に扱ってください」
「うぇ、吐きそ」
「ええっ! 桶要りますか?」
「冗談よ〜」
「……切ってきます」
 西瓜を抱え、幽々子様に一礼してから台所へと向かう。
 ――記憶を取り戻すには脳に刺激を変えてみるといいらしい。
 あの洞窟での一件の後、幽々子様は記憶を取り戻すことに積極的になった。
 まず、自分の所持してる物から連想して記憶を戻そうとしたけど、その所有物の大半が見覚えのないものだった。どうやら失ったのはわたしに関する記憶だけではないらしい。
 それで今、脳に直接衝撃を与えて記憶を取り戻そうと奮起している。
 例えば、白玉楼の階段の三百段くらいを転げ落ちたり。
 ちなみに、受け止めるのはわたし。
 次に、物理的な行動は痛みを伴うので止めて、とびきり辛い料理を水なしで食べきる。
三口で降参していた。というかこれも物理的なんじゃ……?
 流れ星に願い事をするため天体観測。
風邪気味になっただけ。多分星が見たかっただけなんだと後で思った。
 段階を踏むごとに趣向は的外れな方向へ行き、効果は無し。まあ、これで効果覿面だったほうが驚くけど。
 まな板の上でざくっと頂点から西瓜を二等分にする。みずみずしい赤の果肉を剥き出しにした。
ぼうっとしながら過去に何が起こったのか振り返ってみることにした。
 ある日突然幽々子様は記憶を無くしてしまった。それは記憶喪失と呼ばれる類のもので、主にわたしに対する記憶の一切を無くしてしまった。初めはわたしを従者であるということさえ分からない始末だった。けれど今、わたしは幽々子様のお付きとしてすむことを許諾されている。それはわたしと幽々子様が互いに和解したからだった。
 でも、幽々子様の記憶は未だ戻らずじまい。幽々子様は無理にでも記憶を思い出そうと日々奔走しているのだけれど、正直危ないので止めてほしいのが本音だ。記憶を取り戻すどころかさらに酷い記憶喪失になったら……冗談にならない。
 あれ、これじゃあ前のわたしを困らせる幽々子様に逆戻り?
 ……深く考えないでおこう。それをどうこう言う前に、幽々子様は記憶喪失という病を抱えた病人だ。安静にしているのが安心。本人にそれを言ったら一切聴き入れなかったけれど。身を危険に晒さず記憶をどうにかする方法はないだろうか。いや、それよりも幽々子様を大人しくさせるほうが先か。
「……はぁ、心を静めるものとかでもないかなぁ」
 西瓜を6等分に切り分ける。まな板の上、包丁で切れ目を入れた部分に、薔薇色の果汁が広がる。黒い種が赤い果実に埋め込まれてひょっこり顔を覗かせていた。光沢の入っている黒い種にはわたしの顔が映っていそうだ。切り分けた西瓜を一つずつ皿の上に乗せ、またそれらをお盆の上に乗せて台所からちゃぶ台のある和室まで運ぶ。両の手がふさがっているのでお盆を床に置いてゆっくり襖を開くと、室内では紫様と幽々子様の会話が飛び交っていた。
「西瓜に塩? なんでそんなものかけるのよ」
「え、だって西瓜といえば塩でしょう」
「はっ、ありえないわね。味覚障害じゃないの?」
「塩バカにしてんじゃないわよっ!」
「塩なんて邪道も甚だしいわ。あとバカにしてるのは塩じゃなくて紫ね。頭、大丈夫?」
「くーっ、腹立つわ〜っ! どうにかしてぎゃふんと言わせてやりたい……!」
「ぎゃふん」
「なぁっ! 記憶無くなってからやっぱり口の悪さだけは拍車をかけて悪くなったわね!」
「いやまあそれほどでもないわよ?」
「誉めてないわよっ!」
「あのー……」
 喧騒を繰り広げているのはかまわないのだけど、ちゃぶ台の上で大きく身振り手振りしているので皿を置けないんですが。
「とりあえず食べませんか?」
「……妖夢はどっちなのよ」
「はい?」
「妖夢は塩派!? そのまま派!?」
 どうでもいいです――と言えば事態に油を注ぐのでいったん口をつぐみ、別の言葉を考えた。
「うーん……互いに食べ比べすればいいじゃないですか」
 ジト目が2つ。二人は呆れたため息を吐く。
「駄目ね。もっと笑いの感性を磨きなさい」
 そんなご無体な。
 とりあえず落ち着いたようなので取り分けた西瓜を二人の前に持ってきて、塩も紫様の前に置いておく。わたしも塩をふりかけて食べるつもりだったから持ってきていたのだ。わたしが塩を持ってきているんだから塩派だと思わなかったのかな、と考えたがそういえば幽々子様からお盆を見ようとしても襖がじゃまになって見えないんだった。
紫様はありがとうと言い、塩を振りかける。
 しばらくするとどちらからともなく食べ比べが始まった。
「んんっ、意外と美味しいわね」
「でしょう? わかったらさっきの発言に反省して三つ指ついて土下座なさい」
「馬鹿でしょう? あなた、馬鹿でしょう?」
「二回も馬鹿って言わなくてもいいじゃないのっ! しかもそんな溜めてっ!」
 すでに言い方が小馬鹿にした態度だ。
「馬鹿はどこまでいっても馬鹿だからいいじゃない。あなたは知らないでしょうけど、馬と鹿って書いて馬鹿って読むのよ?」
「そのくらい知ってるわよっ……っていうか、わたしは馬鹿じゃないっ」
「もはや幽々子様の口の悪さは病気みたいなもんですね」
「だって病人だもの」
「自覚あるなら多少は自重してくださいよ……そういえば紫様、いつここに?」
「今さっきよ。あのアホらしい見世物を肴にさせてもらったけど」
「そのときからいたんですか……」
 まあね、としたり顔で返事をした。
「ああそういえば、病気で思い出したわ」
 紫様が唐突に別の話題を切り出した。
「妖夢でも幽々子でもいいのだけれど、永琳のところへ行ってはどうかしら」
 ピクッと体のどこかが反応する。永琳……どこかで聞き覚えがあるような。ああ思い出した。永琳、という女性は薬剤師だ。医者でもあって永遠亭と呼ばれる、この白玉楼とはまた違う日本屋敷に住んでいる人。
「まあ単純な話、記憶を取り戻せるような薬をもらってきなさいってことよ」
「薬って――そんなものあるんですか? 病を治すのなら勝手が分かりますが、記憶なんてどうしようもないんじゃ」
「いやいや、多分彼女は薬という形式でなら、病気以外の事に対しても効果の出る薬を作り出せるわよ。まあとりあえず訊くだけ訊いてみなさい」
「はい、わかりました。あ、幽々子様も一緒に行きますよね?」
「いや、やめておくわ面倒くさい」
 なんていうか、ほぼ予想通りの返答に呆れてしまう。当事者なのに。自分から行動するのは好きなのに、他人に付いて行くのは嫌らしい。どこまでも我が道を行く人である。
「面倒くさくても自分のことなんですから行きましょうよ」
「わたしはここの主。主は自身の領地から出てはいけないのよ。頼みごとをするために国王自らが相手国へ出向いたりしないでしょう。普通、使者を送りつけるわ」
 いやいやいや、そんな理屈通らないですよ。この前わたしと一緒に買い物に出かけましたよね? あれ、すごく庶民的ですよ。
「だから妖夢、あとで報告お願いね」
 もう幽々子様の頭の中では自分は行かないことが決まったらしい。こうなるともうその決意を捻じ曲げること無理だろう。
 ため息。ため息は幸福を逃がすと聞くけど、わたしは幸福の数割をため息で吐き出しているのかもしれないと倒錯する。
「はい。出来る限り良い結果を持ってきますよ」
 けどそんな毎日も悪くないかなと思えた。


「じゃ、適当にいってらっしゃい」
「はい、いってきます」
 紫様とわたしは永遠亭の前に立っている。
「戻るための境界は残しとくから、そこから戻ってきなさい」
「わかりました」
 境界、という言い回しは紫様が持つ力――様々な物事の境界を操る力に関係するものだ。
 単純に空間移動のような機能を果たすこともあれば、目に見えないことがら――例えば認識の境界を操ることもできる。応用が利けばその使い方は多種多様だ。多分言葉遊びだと思われるような境界でも容易にいじくれるかもしれない。
 わたしが剣術を扱う程度の能力を得ているのと同じように、紫様にもそんな力がある。
「あと、これ」
 辛うじて両手に乗る程度の大きさがある巾着を受け取る。
「中身、見てもいいですか?」
「いいわよー。まあ、あなたが買ってきた物だしね」
 頭の上に疑問符を浮かべながら袋の中を覗き込む。中にはさらに小分けされた袋がいくつか入っていて、中にはこの前わたしと幽々子様が下町に出かけに行った際に買ったものが入っていた。
「永琳にお土産だっていって渡して頂戴」
 そう言って、紫様は眠そうに行きに使った境界を通って、暗闇に姿を消した。紫様は時々気が利く。幽々子様以上の怠け者だけれど、わたしはそういうところを尊敬している。
 途方も無く背丈のある竹林に囲まれた土地。普通では来ようとしても迷ってしまう位置にあるこの屋敷は、元々永琳さんたちが隠居するために建てられたものだ。白玉楼の屋敷は開放的なのに比べ、永遠亭はその高く伸びた竹林が天の光を阻み少し薄暗く感じる。決して陰湿な気配だというわけではないが、どことなく影のある雰囲気をまとう場所だ。
 玄関の引き戸を横にずらし土間へ踏み込むと、先が見えなくなるほど長い廊下が足元に伸びているのが見えた。
「すみませーん。永琳さんいませんかー?」
 あまりにも静寂だけがこの空間に漂っていたため、わたしの声は何度も壁に床に天井に、反響する。
 程なくして襖と木の溝が擦れる音が聞こえ、一人の人物が顔を出した。
「はい。――妖夢さんね。こんにちは」
「こんにちは」
「ま、とりあえず上がって上がって」
 八意永琳。左右で朱と蒼で対象になった服を着ていて、それがまた腰の帯を起点にして上下で反転している、というかなり変わった服装をしている。まあ少なくとも和風の庭園に合わせた服にはならないだろう。光の繊維を直接編み込んだかのようなきらびやかな銀髪、頭に星座の描かれた小さな帽子を乗せている。わたしと違い体つきは豊満で――というか、わたし以外の身内全員胸はあるじゃないか。悲しい。
「どうしたの?」
「まあ、少々事故嫌悪を……なんでもありません。失礼します」
「はいどうぞ」
 脱いだ革靴の踵を揃えておく。先に行った永琳さんを足早に追いかけて、襖の開いた部屋に入る。まず目に付いたのは箪笥。透明な硝子の壁の奥に置かれている小分けされた硝子の小瓶がならんだ箪笥だ。これでもかと言わんばかりの数が陳列している。畳にはすり鉢と薬研が適当に置いてあり、摩り下ろした何かがそれぞれの形状に沿ってこびりついている。どうやら今さっきまでその何かを摩り下ろしていた最中だったらしい。邪魔してしまったのかなと、少し後ろめたく感じた。
「ほらほらっ、そんな入り口で固まってないで入って入って〜」
「あ、は、はい。すみませんっ」
 永琳さんは湯飲みを二つ手に持っている。湯気からふわっと、茶葉の良い残り香がした。たたっと、ちゃぶ台の前に正座。
「ああ、座布団がないわね。はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。よいしょ、と。で、今日の用件は?」
「あ、その前にこれ、お土産です」
 巾着を手渡す。永琳さんは不思議そうな顔でそれを受け取った。
「ありがと。――ええと、開けてもいいかしら?」
「いいですよ」
「じゃあお言葉に甘えて。これは、枇杷――と、薄荷の葉ね。あ、当帰だわ。ちょうど切らせてたの、助かったわ。……え、これって麝香? いいの? こんな高価なものもらっちゃって」
「いいですいいです。もらっちゃってください」
「んっ、ありがとうね〜」
 今のでだいぶ上機嫌になったようだ。
「それで、用事なんですが」
「あー……ああっ。はいはい」
 永琳さんははしゃぐ心を押さえてわたしと同じように正座し、聞き耳を立てた。
「あのですね幽々子様についてなんですが、どうやら記憶喪失になったみたいなんです」
「……へぇ、そういうことになったのね」
「……?」
 永琳さんの妙な納得の意味がふと、気になった。
「ん? ああ、気にしないで続けて」
「はい、それで記憶喪失を治す薬とかありませんか?」
「あるわよ」
「本当ですかっ!」
 思わず腿の上に置いた手に力が入る。記憶を取り戻せる薬は作れる。やっと、やっとのことで一筋の具体的な希望が見えてきた気がする。果たしてそんなものがあるのかと半信半疑で訊いたわけだけど、何にしても作れるのならそれがどれだけ辛苦であっても耐えられる。
「ええ、作れる。作るのはそこまで言うほど難しくはないの。まあ少なくとも、無窮の命を作り出す薬よりは大分楽よ」
 なにか含みのある言い方だ。無意識に生唾を飲みこみ、そのまま話しを聞く。
「でも、効果がない」
「……はい?」
「特定の病に対する効能を持つ薬味は勿論、他の目的で使用しても馬の耳に念仏。薬師である私は各々の薬が持つ効験を全て理解した上で服用する患者へと手渡すべきだわ。って、この言い方じゃわからないわよね」
 首を縦に振る。勘で、この雰囲気は悪い物だと悟った。
「まあいいわ。でも、その話の前にひとつ、言っておかないといけないことがあるのよ。私は薬師であり、医者でもある。医者は患者と向き合うことによって服用するための薬味を選ぶの。勘違いしないでね。別に怒ってないわよ?」
「……つまり、幽々子様を連れてきて欲しいと。さっきの言葉の続きはそれからですね」
「聡くて助かる――」
 わ、と永琳さんが言い終えたと同時に空間が歪んで音がした。頭上を見ると、円の形を成している黒と紫の斑模様があった。平面で歪んでいるので、永琳さんからみたら黒い糸が見えるだけだろう。その歪みから薄桃色の毛が現れ、それが人の頭だと判別できた、と思った次には
「ぶっ」
「いたっ」
 顔面に頭突きを食らっていた。
「あいたたた……鼻曲がってないよね……」
「あ、頭割れそう……」
「な、なんで上から降ってくるんですかっ!」
「う……妖夢こそ避けなさいよっ! こっちは紫がやったことだから知ったこっちゃないもんっ! わたしはただ和菓子を食べて、お煎餅食べて、そーめんすすって、くつろいでただけよっ!」
「え、わたしのは……残ってますよね? あの、『ようむ』って書いてある羊かん三つくらいなんですけど」
「美味しかったわ」
「うぅ、帰ったときの自分のご褒美に取っておいたのに……はぁ、もういいかぁ。で……ちょうどいいときに来ましたね。もしかして状況を見計らって来ました?」
「紫が妖夢の右耳の聴力の境界をいじってたからね」
「ねえ、お取り込みのところだけど、もういい?」
 永琳さんはため息をついて、呆れ果てていた。
「あっ、はい、すみません」
「話を聴く限り、今までの話は聴いてたわね幽々子さん」
「ええ」
「じゃあいくつか質問。頭痛はした?」
「今さっきのでね」
「……そういうことを聴いてるんじゃないの。記憶喪失になったあと、体に異常はあった?」
「いや、なにも」
「お酒は?」
「そんなに酷く飲んでないわ」
「妖夢さん、こうなってしまう前日の夜、大きな物音は?」
「いえ、コレと言ってはないですけど」
 一通り質問を済ませると、少し思案をしている仕草をした。
「……じゃあ、突然、突拍子に記憶喪失? 原因不明?」
「はい、そうです。次の日になったらいきなり幽々子様は記憶喪失になってました」
「ああ、やっぱりね」
 永琳さんは一人で疑問の解決をしてしまったらしい。
「ああもう、もったいぶらないで教えなさいよ」
「じゃあ単刀直入、単純明解に言いましょう。幽々子さん、あなたは記憶喪失じゃないわ」
 凛呼とした態度の提言。それが和室の隅々へと反響する。一瞬、永琳さんの発言の理解を体が拒否した。今はその拒否を取り下げ、沈思に浸る。
「それでもいいから使わせてください。万が一、記憶喪失の可能性もあるじゃないですか」
 可能性がゼロじゃないなら、無理にでもそれにしがみついてやるべきだ。やれることを全てする。絶望の湖に浸るのはその後でも遅くは無い。強い意思の塊がわたしの発言を後押ししていた。
 それとは対照的に、永琳さんの態度は非常に消極的だった。
「……はぁ、もう面倒ね。知らないフリとか、やれって言われてるわけじゃないしね」
「はい?」
 だんだん、永琳さんの言うことがわからなくなっていく。できると断定しておきながら、それを覆すような言動を放ち、勝手な態度で立ち振る舞う。
 なにかを裏に隠している口ぶりだということは、その婉曲した言い回しから推測できる……が、逆に言えばわかるのはそれだけだ。
「このくらいなら教えてあげましょう。また同じことだけれど、記憶を戻す薬を使って事が解決する可能性は皆無。無いに等しいじゃなくて、無いの。幽々子さんは意識障害による記憶喪失ではないのよ。そして妖夢さん、あなたに関する記憶だけがごっそり抜け落ちているという状況、これはわたしがやったこと。事の全てを知り尽くしてるんだけど、幽々子さん本人……少しこの表現もまたあれかしら? とりあえず、貴方たちのためにもこれ以上深いことは言えないわね」
「え……?」
 驚嘆と疑問と、答えを求める感情で頭がいっぱいになる。口を開いても魚が水中で酸素を求めて口をパクパク動かす形になり、まるで声にならない。
 教えないのはわたし達のため?
 記憶喪失ではない?
 なんでわたしの記憶だけが無いことを?
 永琳さんが幽々子様の記憶を失わせた?
 折り重なる疑念がわたしの口を塞いでいった。
「ついでに言っておくと、幽々子さんと言っても今の彼女に問い詰めても何の意味も無いわよ。別に、いじわるしてるわけじゃないからね。間違っても悪態つかないように。たとえ彼女が記憶を全て取り戻したとしても、今のままでは同じ事をもう一度繰り返すだけよ。さらに言っておくと、これは私が起こした事件じゃない。わたしはただ少し、背中を押すことで助力しただけよ。だからといってわたしに問い詰めないように。じゃないといざというときにわたしは協力してあげないからね」
 まるで思考がこの状況を整理するために全て使われているため、ほかに何もできなくなったかのようだ。体は空気に縫い付けられたように動かなくなり、色素の失せた視界で永琳さんが動いているのが分かった。
「……でも、私を元にもどす方法はあるんでしょう?」
「……へぇ、驚いたわ。これだけのことを言われてもなお、怖気づかないなんて」
 幽々子様は少しの動揺も見せずに、そのまま永琳さんを射抜くような強い眼力でにらむ。続いて足が動いて畳が擦れる音。笹の葉が風に揺られ揺られてなびいているのが聞こえた。永琳さんは音を立てて茶をすすり、一息つく。
「次に来るときは相応の回答を導き出してからね。それが名答であり、事後のことを大団円にできるというならば――わたしは幽々子さんを元に戻すための方法を教えましょう」
 言い方はすごく柔らかく、その説明の仕方は懇切丁寧だ。その言葉はしかし、刃となってわたしの臓腑へと突き刺さる。
「永琳、あなたは全てを知っているの?」
「だからそう言ってるじゃない。でもこの事件はすでに終わってる。あなた達に犯人から危害はないから安心して推理なさい」
「そう、わかったわ。話はこれで終わりね。帰りましょう妖夢」
「……はい。永琳さん、ありがとうございました」
 その後、わたしにできたことは腹の深奥で生み出された形容しがたい、血みどろの沼に落ちていく自分を見ているような暗い心持ちを背負ったまま、幽々子様に続く形で立ち上がり無言でいることだけだった。




「――で、向こうでいいように言いくるめられて逃げ帰ってきたのね」
 白玉楼に戻り、屋敷の縁側に3人で足を下ろして座談会。ちょうど今、わたし達が永琳さんのところで話していたことについて強く言及されているところだ。
「はい。でもちょっとその言い草は酷いですよー……」
「じゃあせめて強気な台詞を残して、それから帰ってきなさいっ」
「ええと……例えば?」
「『次には目に物見せてやる! 覚えてろよ!』とか?」
「やられ役の悪人みたいですねそれ。というかこの前の出店の大男が言いそうです――てそうじゃなくてっ」
 眉を寄せて、少しつりあがった目つきで言い寄る。
「今話さないといけないことはこんなことじゃないでしょう」
「え、そうだったかしら。『幻想郷における悪党が逃走時に吐く置き台詞、負け台詞』とかじゃなかったかしら?」
「やっぱりわざとだったんですね! そーだったんですねっ!」
 どおりで負け犬の遠吠えっぽいと思った!
「ちなみに人間編、地底人編、吸血鬼編、蓬莱人編、妖怪編、地底人編と続いております」
「全七部作ですかッ!?」
「全部で十万飛んで百八部を製本する予定よ」
「その計画性の無さに絶望しましたっ!」
 どこにも需要がないじゃないか!
 ……って、これじゃあ話が進まない。
 閑話休題。
「とりあえず……どうしましょうね。少なくとも偶然じゃなくて必然の出来事なんですね、これって」
「そうねぇ……永琳の言うことをまとめると今までやっていた幽々子の努力は全部無駄だってことになるものね」
「まったく、とんだ損をしたわ」
「永琳が仕組んだことだとしたら、手口は確実に薬によるものだってことは確実なんだけど……」
 とどのつまり、それ以外はなにもわからない。第一、
「記憶喪失じゃないんですよね、幽々子様?」
「ええ。でも記憶の一部を失っていることは事実よ」
「それはつまり……」
 永琳さんは意識障害による記憶喪失ではない、と言っていた。
「記憶喪失だけど、意識障害は関係無いということですかね?」
「そういうことね」
 ちなみに意識障害とは本人の意識の程度が低下する状況である。昏睡状態や錯乱などがそれにあたり、結果として思考や判断、記憶の能力が損なわれてしまうこともある。

「私に関係する一切の記憶を削る薬……みたいなものでしょうね。まあ永琳さんだったらどんな薬でも作ってしまうでしょうし、そういうのも作れるでしょう」
 順当に考えるとその通りだ。だが原因がわかっても、犯人は永琳さんが自分じゃないと言っている。ただその言葉だけを反芻すると、思いきり永琳さんが犯人だと言わんばかりの内容だ。
「永琳さんが犯人なんでしょうか?」
「さあ? 正直、犯人からこっちに自分が犯人だと名乗る理由がわからないのだけど……」
「でも、永琳さんは自分が犯人になってもかまわないから説明してくれた可能性もありますよね」
「可能性だけね」
「相当狂った動機じゃないとありえないわねそれは」
 たしかに。自分から首を突っ込まなければ、自身が犯人だと判明することはないのに、そうしている。愚かにもほどがあるだろう。
 今のところ分からないことは犯人だ。候補は上げられるにしても、それを決定付けられない。それでも、動機だけは――
「動機は結構はっきりとしていますね」
「……たしかに」
「えっとそれって……わたしの妖夢に関する記憶をなくすため?」
「そうですね。もっと深くつついていくと変わるかもしれませんが、表面状はそれでしょう」
 そして、このことを前提にして話を進めなければ、わたしたちはまったく推理することができない。
 もしこの理由でなかったら、そのときに別の理由を提案すればだろう。そうやってしらみつぶしにやっていくしかないのだし。
「ねえ幽々子、ちょっと聴きたいことがあるんだけど」
「なに?」
 眠そうな目を紫様へ向ける。まったくどうしてこの人は自分のことについて話をしているのに、まるで人事のような心持ちなんだろう。肝が据わっているのか、自分には鈍感なのか……。
「記憶を無くした朝、気になったことをもう一度思い出して欲しいのよ。どんなに些細でもいい。見当外れなことでもいいわ」
「……はぁ?」
 大丈夫? といいたげなほど、表情がいぶかしげに変わる
「そんな顔しない。だってもう、こうなったら闇雲にいくしかないでしょ?」
「まあ……そうね。やる価値は、やった後で考えればいいか」
 幽々子様は深く考える姿勢になり、しばらくすると相手を言葉で負かそうとするかのような勢いで話し始めた。
 ――そして語り終えた後、その内容を墨のついた筆で紙に記した。
 あの朝起きたとき、真っ先に気になったことは部屋の作り。部屋の作りはいつもの和室なのに、家具の配置、布団の向き、障子の破れ具合、その全てが違っていたので自分は別の部屋で寝てしまっていたかと思ったらしい。また、自分の普段着も今まで見たことの無い服で、嫌いな色彩ではなかったけれど知らない間に自分の服が増えていたことは不気味に思えたようだ。
 あとは、見覚えの無い靴があっただとか、おしりに吹き出物があってとても哀しかっただとか、自分の買っておいた三食団子数本がまるごとなくなっていて動揺しただとか、酒蔵の樽の中に入っている日本酒はおいしいとか、最近お腹が膨れている気がするのは妖夢の作る料理が美味しくなっているからとか、そんな他愛のないものばかりだった
「ふむ……なるほどね」
「紫様、今のでなにか分かったんですか?」
「ええ……何もわからない、ということがわかったわ!」
「えー」
「……でも、朝起きたときの感想はちょっと気になるわね」
「それは同感です。朝起きたら別の部屋に居た……夢遊病じゃないですよね?」
「そんなわけないでしょ。人を病人扱いしないで――って私病人だったわね」
「もう少しそれらしい振舞いがないと看病のし甲斐ようがないですが」
「なんか侮辱されてる気がするのだけど」
「いえいえ、わたしはこんな現状の中でも気を滅入らせずに過ごしている幽々子様の姿を見れて嬉しいですよ?」
 紫様が言う。
「回想すると思わず笑顔がこぼれるわよね。自分から階段を転げ落ちる時とか」
「ぐっ……言うじゃないのっ」
「わたしだって言われっぱなしじゃ気に食わないのよ」
「うるさい年増」
「あなただって十分年増なくせに」
「わたしは見た目、まだ若いもの。あんたはその服装含めてババ臭いのよっ」
「大人の魅力があふれてるって言ってくれる? あんただってなによその赤ん坊が被るような帽子。どこの時代にそんな流行があったのよ」
「はっ、一日の半分以上を惰眠で埋めているような暇人に流行がわかるのかしら?」
「幽々子だっていつも家で惰性を貪っているだけじゃないの」
「だまれ年増」
「なによナンセンス」
 双方にらみ合い。火花が散るんじゃないかな、と思うほど怒り心頭だ。もはやまともな内容で会話は望めないだろう。あ、昆布茶おいしい。ぐいっと飲み干す。
 ……とりあえず、お茶入れなおしてこようかな。



公開日:2010,11,10


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