普命というものは、はかないからこそ、
尊く、厳かに美しいのだ。

トーマス・マン




 


表路地。
たたずむ大き過ぎる墓標、いくつものビルが一列に連なり、窓から見下すような光がアスファルトに降り注ぐ。
そんなことは全く気にしない人々が墓標と墓標の隙間を無造作に歩く。
爆音を奏でるバイク。時折鳴るクラクション。光り輝く月。照らされる幾つにも重なる命。
多分、ここで生きる者達の人生の大半は平和だと思う。
裏路地。
月の光が微かに当たる、夜景には照らされない裏路地に黒い猫がいた。
空を見上げたら、田舎の人が見たら立ちくらみするようなビルからの光。
コンクリートの上にはごみが散乱していて、たまに壁にスプレーで落書きが描かれていることもある。
多分、ここで生きる者達の人生の大半は酷だと思う。

しかし、遠くから見たらとても美しく、決して汚くは見えない夜景。
遠景と近景が違うのはよくあることだ。
例えば遠くから見た富士山は白と青のコントラストが美しく、詩や絵でもよく描かれているほどの美術的価値がある。
しかし、近くから見たその実態は人間が捨てた空き缶やごみ袋等があり、決して良い感情を抱けない。
そんなわけで、表通りと裏通りの物語は始まる。

これは、血と温かさと、命の物語だ。
そしてきっと、この物語を読んだあなた自身が少し考えて想像する物語でもある。



第1話






「あれ? ここは……?」
目を開けると視界には真っ白な世界が広がっていた。地面の底が見えず、一点の曇りもない。雪原にいてもここまで真っ白ではないだろうと思われるような世界に私はいた。
辺りを見回しても、白い地面しか見えず、周りに見当たるものは何もない。
「おっかしいなぁ。私、寝てたはずなのに」
そう、確かに私は部屋で眠っていたはずなのだ。
乾いた空気があたりを漂う。その白い空間には終わりが見えなかった。こんな空間に1人で何時間もいたら気が動転しそうだ。
「お譲ちゃん、そこの譲ちゃん。」
突然、目の前に老人が現れた。右手にはくねった杖、緑の一枚布をかぶるような感じで羽織り、白くて長いひげが妙に風格をかもし出している。
高い鼻、厚い眉毛、年季の入っているナイフで切れ目を入れたようなしわが年を取っていることを表している。
「ほへ、あなただれ? ここはどこーわたしはだれ?」
「まだ眠気が取れておらんのか。まあええ。わしは……まあ俗に言う神様みたいなもんじゃろうな。そしてここはおぬしの心の世界あるいは夢の中じゃよ。」
自称神様は上を見上げながらつぶやくように言葉を発した。すいません、私のボケは無視ですか?
「ああ……私もついに天に召されるときが来てしまったのね……」
あまりに部屋が神々しすぎる様に感じて頭のネジが1本外れてしまったのだろうか。
胸の前で自分の手を組んで上を見上げてみる。なんだか光がほほえましいと思えてきた……
勿論、効果はない。もともと変な子だと言われてきたが、この場所では自分の性格に対するストッパーがすべて外れたような気がする。死ぬ間際までヘンな子だとは思わなかったです神様。
「ああっ! 神様! 私を連れて行くのは天国? 地獄? それとも……」
ちょんちょんと神様が肩をつついた。私はギュインッと勢いよく振り向いた。
自称神様はそれに驚いたのか咳払いを一つした。
まあ落ち着きなさい。今回出向いたのは、お願いがしたいことがあるからなのだよ。』
……え? なんですかそれって」
「近いうちに、黒猫が目の前にひょっこり現れるんじゃ。そのこを優しく迎えてくれないかの』
「ん〜いいですよ。私、動物大好きだしっ」
即答。まあ実際かわいい動物はOKなのだが。あ…… 待てよ…… 『黒』猫?
「……杞憂じゃったか。でもまあこれを言っておかないと解放されるもんも解放されんし……」
「なんか言いましたか?」
まだちんぷんかんぷんな私を軽々と無視して自称神様は言葉を続けた。
「いや、何でもない。それではまた会おう」
言うだけ言って私の前から消えていく。青みがかった光の粒となって下から徐々に上に舞い上がっていった。
「あ、綺麗……」
白銀の空間での幾千もの青い光の粒は一生かかっても偶然では見れそうにないくらい幻想的で、素朴で、優しくて、なぜか温かかった。
次の瞬間、白銀の大地の中からふつふつと少しずつ湧き出るように、淡い青の光の粒が地面から隔たるようにゆっくり上空へと舞い上がっていった。
青い光に触ろうと手を伸ばしたが、上への道が閉ざされると左右に逃げて、私の腕をすり抜けていく。
白銀に青い曇りが映る空間での幾万の光の粒は現実では見れないくらいに幻想的で、壮大で、優しくて、なぜか温かかった。
気づいたときには私はもう自分の部屋に戻っていた。
明かりのない夜の暗い部屋にいてもまだ、幻想的な光の風景の余情に浸っていた。



寒い夜のこと、そんな冬の日のこと。
今日も黒猫はボロボロだ……
いきなり、街中を威風堂々と歩いていただけなのに、剛速球で石を投げつけられるとは何事だろう! と、始めは思う。
しかし、人間の攻撃から逃げて、そこからまた別の人間に見つかり、幾度となく痛みを受ける。そのような毎日。
つまり、いくら睨みつけても状況が変わらないことがないことが分かると、黒猫はその理由こそ考えたが痛みを全く気にしなくなった。痛みはあったが心のどこかで怒りの感情をシャットアウトしてしまったのだ。
もしかして彼女にいいところを見せたかったのだろうか?金色の瞳がギラッと動く。
いや、理由はわかっているのだ。いくらなんでも人間の町にいたら感情くらい理解できる。明らかに馬鹿にしているのだ。あるいは目の敵にしているという感じだ。猫という動物は、非常に感受性の高い動物なので、表情で喜怒哀楽はずば抜けて鋭い感性で理解できるのだ。
でも、どうせなら食べ物を投げつけてほしい、切実に思う。


ここ、日本国は世界の先進国でありながらも不況を低回していた。そのなかの首都である東京は特に不況の影響を受けていて、ホームレスに近い状況の人もいれば突然会社が倒産してしまったりと、仕事で成功した人物はめっきり減ってしまった。
そのため、人々はめまぐるしい世の中で懸命に生きるために、明日の生活を保障するために、夢に近づくために仕事をしながらも、何かにすがりついて心を少しでも軽くして現実逃避をする人が多くなった。そうして占いやら運気上昇アイテムやらが流行っていた。そして、流行という枠を飛び越えて街の風習となるくらいとなった。

                                                                                   

「ふぅ、今日も疲れたな。散々物をぶつけられたし……」
いつも通りの裏路地。にごみが落ちていて、あちこちの隙間から寒く寂しい空気が漂い、人気も全くない。にぎやかな表通りとは違い、街灯の光と月明かりしかなく、コンクリートを爪でたたく音がよく響くくらい静寂に包まれている。
――心地よい爪の音だな。命の鼓動のようだ。
歩くこと数10分。幸運なことに誰にも出会わずに寝床にたどり着いた。というか眠るのにちょうどいいところを見つけた。
仲間などというものはいない。黒猫いわく生き物と接することが煩わしいそうだ。
「この辺で寝るか…… ってこんなときにもかよ」
寝ようとしたところに、人間に出会ってしまったのだ。こんなところに人間はなかなかいないはずなのだが。
年は10代後半くらいだろうか。
月光に照らされてきらきらと輝く長い黒髪の女の人で、それと同じように漆黒の眼がこちらを見ている。生き生きとした白い肌、整った顔だち、華奢な体つき。
点々とした絵の具が付く茶色のロングコートを羽織っている。小さめのリュックを背負っていて、下はジーンズ。これにも、ところどころに色がついている。靴はブーツ。 ……靴だけ高そうだ。
黙っていたら清楚なお嬢様の風格だが、もうそのイメージは崩れることとなる。
「逃げるか…… ってんにゃっ!」
後ろを振り返った瞬間、その若い女性に抱きかかえられてしまった。
「君、どこから来たの!?かわいいねぇ〜☆ ごろごろ〜ん☆ ねえねえ!? 首輪もないんだし家においでよ! お風呂に入れてあげるよっ!
って言葉がわからないか…… よしっ! こいっ! と言うか連れてくっ!」

な、何だこのハイテンションな女の人は……
硬直…… じゃない! 逃げなきゃ! 何か分かんないけどこのままじゃ危険だ!
「い、痛っ!」
爪を立てて女の人の肌を切り裂く。血がつくが気にしない。すぐに地面に降り立ち、全力で逃げる。駆ける。走り出す。
走る走る走る走る走る走る走る走る走るハシルハシル……


「はぁ… はぁ… そろそろ撒いたか……」
後ろを見てもあの人はいない。あきらめたのだろう。
それにしてもなんだったんだ、あの女の人……
いきなり抱きついてきて意味が分からない.。俺みたいな世間から嫌われている黒猫に好意を示すとは結構物好きなのか?
まあでもそんな興味も一瞬で消えるだろうな。ただの気まぐれだろうし。人間なんてそんなものだろう。
どうせ、「この黒猫、かわいそうだから拾ってあげよう」なんてことを思っていたのだろう。
こんなことは初めてだった。だから、
「俺のことを気に止めるやつなんて……」


前の通り、この辺りではここ数10年の間、占いや運勢相談が流行むしろ慣習となっていた。その中でも『不幸の象徴』としてみられる黒猫は、当然のごとくこの町に住んでいる大多数の人間から忌み嫌われていた。しかも、黒猫が目の前を横切ると悪いことが起きるとされている。
どうして人はそのときガセでもいいから解決策を生み出すのだろうか。そういう時は黒猫に何か物を、石でも何でも、投げて当てれば自分に降りかかる悪いことはなくなるというデマが立ってしまったのだ。それを知った上で接してくるなんてありえないことなのだ。一般的に考えて。
もちろんこのことを黒猫は知らない、ただ人間に嫌われているということだけは理解しているのだ。


その一秒後、猫は背後からの大きな影に即座に気づいた。まったく、次は何だと思いながらも後ろを見た。
後ろには、またあの女性が月光に照らされながらまんべんの笑みを浮かべて立っていた。少し息を切らしながらも。
黒猫は驚いた。まさか人間が猫の全力疾走に追いつけるとは思わなかった。>
表通りのうるさい騒音の中に息のきれた音がかすかに聞こえる。
「……はぁ ……はぁ ……ふゅ〜はぁ〜……
……ね? 一緒……に住も? 友達…… になろ……うよ。きっと楽しい……よ。」
息が切れていたので途切れ途切れだったが、この空間いっぱいの女性の声と思いがはせるこの空間で、黒猫はまだこの事実を受け入れていなかった。本当の本当にあの女性は黒猫と友達になりたいということを。
だから 黒猫は…… 逃げることを選択しようとした。
が、黒猫が走り出す直前に女性はダイブして黒猫に跳びついていた。気づいたら黒猫はあの女の人の腕の中にいた。
「痛たたたた……
よしっ! 行くぞっ!」
黒猫はまたもがいて、また爪を立てて、また鋭い牙をむき出しにして、敵であるかのように、悪者であるように、女の人にとっての愚者に見えるように、演じた。
しかし、どんなに引っかいても、どんなににらみつけても、どんなに汚れで血で手を染めても、
小動物を哀れ見るような眼ではなく、主君と下僕を分からせるような目でもなく、傷に怯えるような目でもなくキミとワタシは同じだと言わんばかりの目で見つめてきた。
12月の夜。この、寒気が満遍なく漂う凍えそうな大気の中で、1人と1匹を照らしてくれるようなダイナモのスポットライトさえなかったけど、この女の人は眩しくて温かかった。
あぁ…そうか…… 人の心の奥の奥って――――

(あったかいんだ………)



優しさに触れられたことが無かった。自分への笑顔を見たことが無かった。心の中は、いつもまるですべてを避けるようにひざを抱えてうずくまっていた。
頭を撫でてもらったことがなかった。温もりを感じたことがなかった。
人間の胸の鼓動がコンクリートを足の爪でたたく音に似ている。心地よかった。
冬の乾いた空気が辺りを漂っている。月は何も知らずに強く輝いていた。
精一杯輝くような空の星は、この汚れた空気のせいで一つ足らず見えなかった。けど、眩しくてきらめくその笑顔は何もかもを和ませてくれるようだった。
そして黒猫は安心したのか、疲れがたまってしまったのかすやすやと眠ってしまった。
「ふふっ。やっぱりかわいいっ。でもなんか、私に似ているわ〜」
その夜。黒猫と飼い主は友達になった。
冬の乾いた風の中で、一瞬だけ暖かさを感じることができた。



第1話 END



公開日:2007,8,29


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