第2話 その家はどこまでもにぎやかでその部屋の空気は明るかった。その歓喜に満ちた空間での事。 女の人の足が黒猫の尻尾の上に、ふにゃ。 「に゛ゃー!」 「ふにゃ? あれ、なんか踏んだ? あ、しっぽ……」 「フニ゛ャー!」 「ごめんごめん! 謝るって!」 絵描きは高速で謝った。少し許してもらえた。 「フーーフーー……!」 でも黒猫は怒りの力を鋭い歯に代えて。 若い女の人と出会って半年と3ヶ月が過ぎた。 ちゃんと家は持っていて、小さくて古い借家の端っこに住んでいた。外観は汚れてひび割れた壁で、いかにも雨漏りでもしそうなくらい古い家だ。 黒猫と出会った時からさかのぼると、1年前にここに来たらしい。意外に(コートの所々に絵の具がついているため部屋は散らかっていると思ったが)部屋はきれいに片付いていた。ただ、決してかわいい部屋とか女の子らしい部屋とか言える物ではなかった。経済難らしい。 職業は絵描きでその辺の道で絵を路上販売しているようだった。1人暮らしで、有名な絵描きになるためにここ東京に上京してきたそうだ。収入はその日その日によってバラつきがある。というよりほとんど多くない。 それと、この若い女の人は「橘 亜樹(たちばなあき)」という名前らしく、あの夜に抱きかかえられて眠った次の日に俺に赤い首輪を付けながら一番始めに教えてもらった。そのときに俺にも名前をくれた。 『Holy Night(ホーリーナイト)』 これが黒猫の名前となった。あまりに変わった名前だったので覚えるのに一日かかったのは後日談だ。あと、一応抵抗もした。 「お〜い、ホーリーナイト〜」 (ぷいっ) 黒猫はそっぽを向き続けた。 「ホーリーナイト〜」 (ぷいっ) 絵描きが近寄ってくる。 「これ、君の名前だよ?」 黒猫は3日3晩そればかり言われていた。 (ぷいっ) もはや意地になっていた。 「あ、もしかして気に入らなかった?」 (ぷいっ) 名付け親は一瞬、「あ……嫌なんだ。」みたいな顔をしたが、一間を置く事もなくホーリーナイトの抵抗は刹那に塵と等しく消えてしまった。 「問答無用!ぜぇったいこの名前なんだからね!」 (ぷいっ) 「ほ〜り〜ないとぉ〜」 「……」 「……」 「……」 「……」 怪しげで卑しげな笑みが近寄ってきて3分の硬直の後、黒猫はため息をついて観念した。 「にゃ。」 「うっし!」 有り余るくらいのガッツポーズ。にらめっこというか、いがみ合いに負けた黒猫は橘に対しての心のメモに頑固者の3文字を記しておいた。ちなみにHoly Nightの意味は『黒き幸』だそうだ。なんで『幸』なのかはさっぱりだが。 朝、冬のすきま風は寒くて、輝くのは壁に付いた蛍光灯だけで、1匹と1人はそれに照らされていた。 さて、話は戻って。 (っ痛ぁー! こ、こいつ俺自慢の鍵尻尾を踏みやがった! この申し分ない角度、程よい太さ、この猫界で最高峰(?)ともうたわれるこの黒い鍵尻尾を!」 尻尾踏まれ被害者は軽くへこんだ。 「ごめんねぇ〜 ホーリーナイト〜」 尻尾踏み実行犯は少しうつむきながらちょっと申し訳なさそうに手と手を合わせて許しをこいた。なんだかふつふつと怒りがこみ上げてきた。 「にゃぁ……」 とりあえず落ち込んだふりをしてみた。 「だ〜いじょ〜うぶぅ〜?」 橘はホーリーナイトのことを心配しているようだった。 (よし、この間合いならいける) 胸の中に眠る怒りをぶちまけるために、橘の顔を目掛けてパンチを繰り出す。 光る右ストレート! いや、光ってないけど。 しかし、事もあろうにあっさりとかわされた。 実行犯は腰に手をあてて胸を張り、えっへんポーズで自慢げに勝利宣言をした。 「ふっふ〜 この9ヶ月の間にもうホーリーナイトのパターンは読めたも同然!!」 その隙に尻尾踏み実行犯に噛み付いたのは言うまでもない。 「いった〜……」 結局、ホーリーナイトにかぷりと噛みつかれて、橘は潤んだ目で噛み付いた跡をまじまじと見ていた。 「うぅ……まあ、いいや。よし、とりやえず、始めよっと」 そういうと、橘は絵を描く準備を始めた。つまり絵を描くということなのだろう。 黒猫が来たときにはいろんな風景画がおいてあった。しかしながら、ホーリーナイトを拾ってからというもの黒猫の絵しか描かなくなった。風景画だけが消えていって、真っ黒な絵だけが増えていった。 ちなみに描いているときにホーリーナイトはあまり動いてはいけないらしく、あんまり動くと嫌そうな顔をする。実際、いつも黒猫はゴロゴロしていたりぼ〜っとしているのだが。 絵は小一時間で完成したり、丸一日かかったり様々なようだった。丸一日の場合は流石にじっとしているのには耐えられなかった。もともと耐えていなかったが。 描いた絵は風景画と同じように路上やその辺の道で売っていて、黒猫もそれに付いて行っている。しかし、いくら上手でも幻想的でも情熱的だろうが黒猫の絵。世間は黒猫を不幸の象徴としてみているためか絵を並べていると、時折通行人の冷たい視線がホーリーナイトや真っ黒な絵に向けられた。 物を投げつけられることはほとんどなかった。通行人からの見解では橘の飼い主として見られていたためだろう。そんなことをするのは生意気なガキくらいだ。そのつど橘は怒っていたが。同レベルか? 一日の大半は絵を描くか、売りに行くかでほとんど流れていった。 2時間後…… 「できた〜」 橘が突然プツッと緊張の糸が切れたかのように、ほっとため息をついた。そしてまだ乾ききってない絵を黒猫に見えるようにブラブラと持ち上げた。 ホーリーナイトは橘の描いた絵を間近で見たことがない。触ろうとするとひょいっと持ち上げられたりするためである。そして橘は完成した絵をホーリーナイトにチラッと見せるだけでそのあとは見せてくれない。触らせてくれない。 そう、ここからは勝負。もう数10回と挑んだがことごとく拒まれてしまっている。 ホーリーナイトはそれに導かれるように歩み寄り、もう1人の自分に触ろうとした。が 、 「だめだめ〜 まだ乾いてないし傷跡がつくでしょ〜」 触ろうとしたら橘は持っていた絵を、触られないように上に持ち上げた。 「にゃ〜」 「だ〜めっ」 「にゃ〜」 ホーリーナイトは橘の足に擦り寄る風に近寄った。 そして、気を抜いている橘の隙を突き、足を、体を、肩をはしごの様にして絵に近づいた。そして橘の絵に手を伸ばし―――― (獲ったー!) ついにもう1匹の黒猫を奪取した。始めてまじまじと自分を描いた絵を見る。元気で活発な猫が描かれていてどこか日常の暖かさがある、黒づくめの絵だった。 そして背後からの禍々しい黒い影。 「離れてくれないかな? ホーリーナイト?」 橘は確かに笑顔だったが少し引きつっていた。怖い。橘の影にもやもやとしか何か、オーラが出ていた。 おとなしく絵から離れると、手が素早く黒猫の頭へと向かう。 痛い思いをすると思って、目を閉じる。が、 「よしよし〜♪ 分かってくれたんだね〜 えらいえらい」 (ち…… ちぢむ……) 確かに橘は頭を撫でてきたのだが、一瞬、潰れるかと思うくらい力が強かったのだ。 か、体の全細胞が生命の危機を身の毛のよだつほど感じ取っている…… なんてことはないけど。 「あ〜っととっ、ごめんごめん☆」 (わざとだ…… 絶対わざとだ……) こうして黒猫の幸せな日常は過ぎていく―― 野良猫だった黒猫は『Holy Night(ホーリーナイト)』という名前をもらい、幸せを手に入れた。多少の不自由もあったが気にする程度ではなかった。 一つ暇があれば橘は近づいてきて、ホーリーナイトに話しかけてくれていた。 "私の故郷は田舎のくせに噴水の広場が綺麗でねー"とか"故郷の人と手紙を交換しているんだよ。その人は獣医師でねー"とか。 "私って結構病弱でよく風邪をひくんだよ。去年は風邪をひかなくてよかったー"とか 橘が一方的に話しかけてきただけだったが、当たり前のように接してくれるので嬉しかった。 ホーリーナイトは本当のことを言うと初めての友達に甘えていたと思う。かまってほしかった。いつも一緒にいてほしかった。離れることなんて考えたくなかった。もしかしたらこんな人に出会うのを待っていたのかもしれない。 風が頬を撫でる。ホーリーナイトはそれにこれからが幸せな記憶であるように祈った。 秋も過ぎて、また冬がやってきた。ホーリーナイトと橘が出会ってから大体、1年くらい経った。それでも変わることなくいつもの日常が続いていた。 いつも通り絵を描いて、売って、はしゃいで、楽しかった。描かれて、ついて行って、甘えて、幸せだった。 ある日の寒い冬、橘は早めに寝てしまった。前々から咳き込んでいて、風邪気味だったからだ。起きてても仕方ないのでホーリーナイトも眠ってしまった。 そして次の日、ホーリーナイトは早く起きて、橘を起こそうとした。しかし、反応はまったくなかった。乗っても跳んでも舐めても、まったく反応がなかった。布団の中に入って肌に触ってみた。冷たい。あの、抱きしめられたときのドクン、ドクン、という音が聞こえない。 その瞬間、一つの言葉が脳裏をよぎった。 死。 瞬間。雁字搦め(がんじがらめ)にあうような衝動に襲われた。死という弾丸が一直線に心臓を貫く衝動。ホーリーナイトは死という言葉の意味を知っていた。ねずみの死や小鳥の死をたくさん見てきた。しかし大して気に留めなかった。そして、人間は簡単に死ぬはずが無いと思っていた。しぶとく、ねちっこく生きていくと思っていた。ホーリーナイトは人間の死を見たことがなかったからだ。 もうこの声を聞くことができないのか。もう動くことはないのか。もうこの暖かさを感じることができないのか。そう思うと金色の眼からぽろぽろ、涙が溢れてきた。止められない。止めることができない。 その日、ホーリーナイトは声を殺し、悲しみがとめどなく溢れる泉に身を沈めてしまった。 第2話 END |