第3話 回顧録


橘が死んだ朝、ホーリーナイトは暗い悲しみの沼に沈んでいた。
頭の中が真っ白になって無我夢中で泣いていた。凍える空気、冷えた体、消えた鼓動、聞こえない声、こぼれる涙がこの状況を構成する。
冷静になろう。落ち着こう。頭の中でそう思っても悲しみを振り払うことは出来かった。

日が落ちてゆく――

そして涙が枯れてしまった頃、冷静に原因を探っていた。無理に心を押さえつけることにした。
いつまでも泣いていても何も変わりはしないからだ。

日は、暮れていく。冷えた世界がさらに寒くなる。活気も、気温も。
なぜ死んだかを考えた。
外傷といってもホーリーナイトが噛み付いた程度しかなく、人間はその程度で死ぬほどやわではないだろう。もちろん誰かにやられたなんて発想は論外である。
自分自身の存在のせいだとも考えた。自分がいたせいで何らかの理由で死んでしまったのだと。十分にそれも考えられた。しかし、それを証明する証拠がないのだった。
何時間考えても答えは一向に姿を見せることはない。
そして夜は更けていく……


ずっと考えていたホーリーナイトは泣き疲れたこともあってか、床の眠りについてしまっていた。




見渡せば白い空間。真っ白な世界で空との隔たりを感じることができない。いや、もともと空すらないのかもしれない。
その純白の空間に1つの黒点が見える。ホーリーナイトだ。彼は眠りについたあと、目が覚めたらこの空間にいた。
(何で起きたらこの空間に?)
分からないのでとりあえずひたすらに歩いた。先のまったく見えない道なき道を。
「くそったれ、何も見えないじゃないか」
恐怖に対する集中力も忍耐力も限界だった。本当は心が恐怖でいっぱいのだろう。
「まったく、こんなところにおったんか」
「誰だあんた」
振り向くとやたらひげの長い緑の一枚フードをかぶった老人が立っていた。東京では全く見ない様相をしている。
「警戒させてすまないのう。わしは……俗に言う猫愛好家じゃよ。」
「なんだそれ? 余計怪しいな」
黒猫が目を鋭くするのを見て、老人はニカッと笑った。そしてすぐに笑顔が消えて口が開いた。彼の髭で隠れて見えにくかったが。
「それにしても失礼だとは思わんのかね」
「……なんでだ?」
自分に心当たりがあるかぼんやりと探ってみる。当然、見当たらない。
「相手に名を尋ねるときは自分からと言わないかのう?」
「やだなぁ〜 それって人間の会話でのことじゃないですかぁ」
「あ〜すまんすまん。もう結構年をくってしまったんでのう。冗談は年を食うと案外通じないものじゃな」
突如、ホーリーナイトの背後から声が聞こえてきた。踵を返す。
その女の人は黒髪ロングの女の人で所々に絵の具の付いたロングコートを羽織っていて――
って、あれ?前にも見たような……
「そういえば私にあったときは神様って名乗りましたよねぇ」
「う…… あ、あれはそうでも言わないと納得しないと思ったからじゃよ」
「へぇ〜そうなんですか〜 ほんとにそう思うホーリーナイト?」
当のホーリーナイトは目を丸くして、口をパクパクさせながら女の人を見ている。
「ん?どうしたの?ホーリーナイト?」
「た…ち…ばな……」
現れてた気ままな女の人。橘がいた。夢か現実か、そんなことは考えさせない驚きがあった。
目の前に、いる。いるはずのない人が、いる。もう会えるはずのない人が自分の目の前に、いる。
そう想うと心の底からうれしさが溢れてきて止まらなくなった。
それと同時にホーリーナイトが大きく首をかしげる。
「何でって顔をしとるのう。まあ無理もないかのう、ここは――」
「ホーリーナイトの心の世界だよ」
「へ? あ、そう……」
黒い毛で体を覆っているのに対して真っ白の空間なので、少々驚いた。自分でもこんな世界を生み出せるのか、と。
「わしのセリフをぶん取るなっ」
「あー すんませ〜ん☆」
自分が泣きそうだというのにこの2人はまったく平和だった。


ホーリーナイトは10数分の二人のわけの分からない会話を流し聞きしつつ、涙をこらえたあと、いくつもの疑問が浮かんできた。
「何でこのじいさんは俺の言葉が分かるんだ?」
まずは素朴な疑問から始まった。
「言葉が分かる理由は猫愛好家ならではのすーぱーわんだほーな能力じゃよ」
返ってきたのは呆れるような返答とウインクだった。
(老人はウインクなんてするなよ……)
会話の意味を察知したのか橘も口を開いた。当然、さっきの会話は橘には聞き取れていない。
「えー。じゃあ私にはホーリーナイトの言葉は理解できないの?」
「ここはホーリーナイトの心の世界じゃぞ?彼が想像すればおのずと理解できるはずじゃ。自然とな」
想像してみる。 ……何を?
「じいさん、何を想像すればいいんだ」
ちなみにホーリーナイトは人間の会話も猫の会話も理解できる。理由は分からない。
「橘に関係していたら何でもいいんじゃよ。まあ橘と話している姿を考えていたら上出来じゃよ」
想像してみる。弾んだ1人と1匹の姿と楽しげな声。温もりを持った空気。
「どう?ホーリーナイト?」
橘の声が確かに聞こえる。……でも。
「なんか変な感じだな…… 何ていうのかな? 気持ち悪い?」
「えー! ひどいよー! ……それって私にとってもそれはおんなじなんだけど」 「まあなー。でも慣れたらそれでいいだろ」
お互いくすくすと笑い合っていると、いかにもわざとらしく咳払いをして、自称猫愛好家は話を切り替えた。
「さて、もうそろそろ本題に入るのじゃぞ。夜は限られておる」
「はーい。わかりましたー」
「ってか今、夜かよ。」



「……なぁ橘、やっぱり本当に死んだのか、お前?」 橘は死んだ。朝にその事実を目の当たりにしても、正直心のどこかで否定していた。次の日になれば夢で終わるんじゃないかと、現実から逃げていた。
大体、死んだというのも自分の勝手な判断だったのだ。
だから、本当は生きているかもしれない、という偽りの真実に全く期待しなかったわけではないが、真実を求めた。
橘は少しうつむきながら悲しそうに言った。
「うん。残念ながらね。この神様に教えてもらったよ……」
想像通りの返答だった。でも心に突き刺さる答えだった。ホーリーナイトは覚悟を決めてさらに言った。
「俺の…俺のせいなのか……?」
少し目頭が熱い。橘は目を丸くした後、慌てた。
「違う違う! ホーリーナイトは関係ないよ!」
橘は顔の前で腕を振って慌てて訂正する。
その言葉を聞いたホーリーナイトは安心した。

ということで、次の質問をすることにした。
「何でここに俺はいるんだ?」
「え〜っとねぇ……」
橘は少し物恥ずかしそう頬を指で掻きながらに言った。
「いや〜、ね、この手紙を届けてほしいの。私の彼氏に」
(は? なんと、彼氏? ……いたのかっ! いや、別にいいのだけれど…… ちょっと意外だっただけで…な……)
「べ、別に黒猫を嫌うような悪い人じゃないから大丈夫だよ!」
嫌うイコール襲うで黒猫のことを虐める人間のことだ。
「あ、ああ……わかった。持っていくよ」
「いいの!?やったー!」
両手を大きく振り上げてバンザイをする。長い黒髪が踊る。
(はぁ、それで俺は呼ばれた、と)
「橘、俺はどうやって届ければいいんだ」
「そこでわしの出番というわけじゃな」
今さっきまでだんまりだった自称猫愛好家が話し始めた。それも残酷なことを幾度も掘り返すように。
「道のりは遠い。3日3晩歩いてやっと辿り着くくらいじゃ。町を通り、山を越えて、その奥にある小さな村じゃ。
体中がボロボロになっても退路はない。戻っても意味はないのじゃ。
また、生命の保証もないしホーリーナイトに得もない。むしろ損のほうが大半を占めておる。
それでも、いいのかね?」
「それでもいい。少しでも恩返しができるならそれでもいい」
即答の後に深い静寂。覚悟を決めたホーリーナイトの金色の目はいつもより煌(きらめ)いていた。 辺りを見回す。冬の乾いた空気の気配も夏の湿った香りもそこにはなかった。自分の周りに影もない。心臓の鼓動だけが張り裂けるように大きかった。
「……覚悟を決めたようじゃな。では主の頭に直接道のりを叩き込むぞ」
「え? 叩き込む? ちょ、え、ええ?」
橘が動揺している。老人は何もなかったように言葉を続けた。
「これ、お譲ちゃん。しゃがむのじゃ」
「は、はいぃ」
橘は膝をつけてしゃがみ、老人は橘とホーリーナイトの頭に手を置く。まるで2人の間隙に架ける橋のように。
老人は微かにぼうっと淡い光を出して橘からホーリーナイトへと記憶を注いでいく。
瞬間、光が強くなり、そっと頭の上においていた手を離す。そして淡い光が収縮して消えた。
「これで、無意識にも歩いていくことができるじゃろう」
「あ、ありがと」
「ああ、わかった」
頭の中で映像化してみる。あれ?結構大まかだな。
「ちょっと待った。結構適当だぞこの記憶」
刹那の間が空き、自称猫愛好家は口をあんぐりとしている。そして、ニヤリと笑う。
「ふぉっふぉっ、それは橘が道を覚えていないからじゃろう。残念じゃが」
「それじゃあ、別の道を教えてくれ」
「無理じゃよ。その道順しか記憶されておらんかったんじゃ」
「……そうか」
残念ながら、ホーリーナイトは生涯生きるのが精一杯で他の街に行く余裕なんてなかった。ホーリーナイトには他の選択肢はなかった。
自称猫愛好家は一息つくと、急に目つきを鋭くしてこっちを見た。
「それでは、覚悟して行くのじゃよ」
この目には前のようなふざけた感情が一切こもってなかった。決意の確認の眼差し。
「はいっ。この手紙を届けてね。無理しちゃ駄目だよ」
橘は心配しているようだった。まったく、俺が死ぬわけでもあるまいに。
そして、橘が手で手紙を差し出してきた。その手紙に軽く噛み付くと、一瞬で消えてしまった。
「え!?ちょ、ちょっと!消えちゃったんだけど!!」
「これじゃ届けられんぞ、じじぃ」
「じじぃって言うんじゃない。わしが2人の頭に手を乗せたときに、主の心の中に物をしまう能力を与えたのじゃ。届ける前にボロボロになっては元も子もないからじゃろ。大丈夫、肉の間に挟まってるというわけじゃない」
(……ちょっと微妙な能力だな。)
「あ、そうか。まったく、紛らわしい。 ……でもそんな能力を与えられるなら俺にすごい力をくれないのか?」
自称猫愛好家に頭をぺチンと叩かれた。ちょっと痛い。
「馬鹿者。欲張るでない」
「……そういえば、直接橘の彼氏に渡せばいいじゃないか?俺みたいに」
この状況が打開できるはずがないのに、ホーリーナイトはさらに質問を加えてみた。ただ聞いてみたかった。言ってみれば好奇心だ。
「そうだったら既に直接渡しておるわ」



そうそろそろ時間も結構経っていたので、ホーリーナイトは現実に帰ることにした。
「じゃあな、ひとっ走りしてくるよ」
そういうと一瞬でホーリーナイトは消えた。
「神様…… 本当に行かせてよかったのかな… だって、これじゃあホーリーナイトは……」
「魂を解き放つにはこれしか方法が無いのじゃ。仕方ないとしか言いようがない。」
橘はそんなことが聞きたいんじゃなかった。第一、こんなことを聞くつもりじゃなかった。
一歩踏み出したら崩れてしまいそうだった。そんな質問をホーリーナイトではなく、この神様にしてしまう私は臆病者なのだろうか。
いや、そんなはずはない。私は強い。そう心にいいきかせて重く言葉を発した。
「私、ホーリーナイトに恨まれたりしないかな…… ちょっと怖いな……」>
「大丈夫。あの子はそこまでひねくれた子じゃないはずじゃよ。むしろ感謝の念でいっぱいのはずじゃ。」
「そうか。そうだといいなぁ……」
本当にそうだと嬉しいし、こんなに悩むこともないのに。そう思いながら。静かに上を見上げた。
「実は、わしは神様じゃないのじゃよ」
突然、老人は赤のインクを青にするような発言をした。
「そう……ってええ! 神様じゃないの!? ん〜じゃあ何て呼べばいいの?」
老人は少し悲しそうな笑顔で答えた。
「……名前は…持ってないんじゃよ」
橘は少し驚いたようだったが、老人の話を理解した後うきうきしながら言った。
「へぇ〜 じゃあ私が考えてあげるよ。ん〜とねぇ〜」
「まて、またヘンな名前を」
「エスペル!」>
間髪を容れずに橘は発言権を強奪した。老人はため息をつくと、
「やっぱり変な名前じゃな……」
といい、少し笑って答えた。 「エスペルの意味はね、希望なんだよ」 エスペルは名前をもらったことが妙に嬉しかった。


外では朝焼けが上り始める頃、2人はまだ白い空間の中にいる。しかし、いつまでもとどまる訳にはいかないので、
「じゃあそろそろ帰るとするかの」
と、エスペルは切り出して、
「うん、そうだね」
と、橘はうなづいた。
橘はエスペルの力により、無数の淡い光の粒となり空に舞い上がった。そして、昇って昇って、見えなくなった。
エスペルは1人となり、空を見上げた。
物事を成す為にはそれ相応の努力が必要だ。 それが才能に左右されるものではない域に達する場合はなおさら。 また条件を厳しくすればそれを達成するのは余計に難しくなる。
楽な道を進むのは簡単だ。ただ、諦めればすべてが終わる。今まで上ってきた坂道を転げ落ちればいいのだ。
もう辛い思いも楽しい思い出もこれ以上創られることはない。それを人は妥協といい、どうしてもそういうものに逃げようとする。


「いつか、おぬしの決断が正しいと思える日が訪れますように……」

そういうと、エスペロは青く淡い光に包まれて――光の粒となり消えた。
もうそこには何も残されていなかった。一片の思いも残っていなかった。
白が、広がった――



夢を見ていた。橘と老人に会う夢。
白いぬくもりに包まれて、聞こえないはずの声が聞こえてきて、想いを託された。
全てが夢幻であるようなことだったけど、信じる証拠もないけど、もうそれ以外何もできない。それしかする事もない。
橘が死んだことを理解したとき、目の前が真っ暗になった。先の見えない未来を生きるにはどうすればいいのか? どうすればいいかもわからなくて、状況を打開する方法を実行する勇気も出なくて、ただ泣いていた。思いは夢の中に消えて、霞んで自分自身も夢鏡の中に引きずり込まれた。
分からない。未来はそんな闇の中を永遠と歩き続けていくことかと思った。でも、今、生きる理由ができた。全身を動かして、今、その思いを果たす。
もう、涙は流さない。



起きたら朝になっていた。外は珍しく雪が降っていて、冷気が部屋まで入り込んでいた。
ホーリーナイトは体を起こし、ドアを開ける。爪で削れてしまったドアノブにジャンプして手を引っ掛けて器用に回し、外に出る。
まだ溶け切ってない雪を横目で見ながら街道に出る。
夜はネオン街のように見える町でも朝は晴れ晴れとして、小鳥や虫が鳴くには寒い季節だ。
いつもは朝日に照らされたアスファルトとビルが反射して幻想的な風景を作り出すのだが、太陽は隠れてしまい曇天の空だった。。空から雪が降っている。この季節で雪が降るにはまだ早いはずなのにと思い、とても不思議だった。落ちた雪は何もなかったように消え去る。さまざまな高さで形成された雲が風に流れていく。
肺に入る空気が冷たくて軽く身震いした。
さて、ここからが正念場だ。結末がどんなものであろうとも橘との誓いを守る決意を始めの1歩に込めて、ホーリーナイトは歩き出した。
雪がしんしんと舞い降りている。それはホーリーナイトの決意を祝福しているのか、それとも避けようのない雪で妨害しようとしているのか分からない。

この後どんな未来が待っているのか、それは自分次第であって、人に決められるものではない。
曇った空。旅立つ日くらいは晴れてほしいと思った。



第3話 END




公開日:2007,11,19

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