第5話 part1 聖なる騎士 ボスとは別れた。どうやら自分も悲しかったようだ。しばらく、頬を伝うものがあった。 目の前に白と茶で彩られた山が悠然とそびえ立つ。故郷へ向かう1筋の道を歩いている。50センチに満たない小さな体から山を見ると、天空へと続いているようだ。 木は茶色の幹がむき出しになっており、地面には落ちた枯れ葉で埋め尽くされている。時折そこにある白い雪。12月ではまだそんなに雪も積もらずに、土がほとんど丸見えになっていた。 コンクリートに舗装された道沿いの土と枯れ草の田舎道を歩く。土は足の衝撃を吸収して、あの固いコンクリートで歩くより幾分かましだった。 そして、人を見かけると避けるホーリーナイト。 「……それでもこの状況は変わらないんだなぁ」 その日、世界はどこまでも平和でホーリーナイトにとっては覚悟を決めた最期の日だった。 山を初めてみたときには、その巨大さに圧倒されたがいざ覚悟を決め、登ってみると安易に足は進んだ。むしろもうすぐ約束を果たせるんだなと思うと気分が軽くなって、きづいたら駆け足でステップを踏んでいた。 (……あれ? テンション上がってきた?) ボスが助けてくれなかったら倒れてしまっただろう今。そんな恩がある4匹を頭の片隅で思い浮かべながら勢いだけで走る。どんなに息が切れてもきっとたどり着ける。希望も根拠もないけど、信じれる。それはホールーナイトの気分を高揚させていた。 枯れ葉と茶色の木が並ぶ山道を駆け抜けるとその先にはあっけらかんとした田舎があった。橘の故郷だ。 「こんな田舎から都会に出てきたのか……」 思わずため息をこぼした。東京と、この名前も知らない田舎の村の景観は全く違っていた。 視界をさえぎるものはほとんど見当たらない。大きなコンクリートの1本道が長く伸びていた。その左右に田んぼやビニールハウスが満遍なく敷き詰められている。空は青く、無限に伸びる雲が空に溶けて、風はホーリーナイトの頬を軽く撫でて過ぎ去った。 また、橘の記憶が役に立った。ここからなら橘の記憶で橘が過ごした日々を視覚化して見ることができる。 足も痛み出したが気に留めない。迷うことなく道を駆け抜ける。 進む。ゴールはもうすぐだ。 何事もなく歩いていると前方に4人ほどの人間の男の子を見つけた。ホーリーナイトはそれにいち早く気づき隠れようとする。しかし都会のように大きい建物は見当たるはずもない。隠れる場所なんてどこにもない。とりあえず道路と田んぼの境界に少し段差がある。それに逃げ込み、息を殺した。 人間の声が耳に入ってくる。いつもなら見つかってもどうってことはない。しかし隠れなければいけないと体が警告していた。こんなところで足止めされるわけにはいかなかった。 そのまま、そのまま通り過ぎることを切に願った…… 目の前に布製の物体が転がってきた。 「あっ、財布落とした。探してくる」 血の気が引いた。子供が近づいてくる。 冷静に判断する。もしかしたら半ば逃げるのを諦めていたのかもしれないが。石を投げつけられるくらいなら別に良いじゃないか。そう思ってホーリーナイトは静かにその場を去ろうとした。 歩いて、何も気にせずに歩いて、橘の彼氏の家に行こうとした。 「……お〜い! ここに黒猫いるぞ!」 (やっぱり気づかれたか。ま、いい。そのまま進むか) そう思った矢先、ホーリーナイトは首をつかまれ、持ち上げられていた。 「おい、やんぞ!」 (……離せよ!) 足や手が届かない。牙で攻撃しようとしてもできない。この4人は小動物の扱いに慣れているようだった。 目の前にいるのは人間の子供。といってもホーリーナイトにとっては巨人に等しい。その理不尽な格差をいつも見ていたので、力の不平は言うまでもなかった。 「石持ってきたぞ」 「お、サンキュー」 「やるか」 (石? 投げつけるのか?) まだ状況の深刻さにきづいていなかった。しかし抗えるはずもなかった。あえていうならば、毎度のワンパターンな攻撃に危険を感知する神経が麻痺していた。 気づいたら下に見える地面は土からコンクリートになっていた。 「うりゃ!」 子供の声が聞こえたかと思ったら、ホーリーナイトの体は勢いよくさらに持ち上げられて、次の瞬間、ホーリーナイトは思い切り横腹から地面に叩きつけられていた。 筋肉が断裂するような音がする。体に衝撃が走る。今まで感じたことのない音が聞こえた。 その光景に顔を歪めずに他の3人はホーリーナイトの手足を地面に密着させ、押さえつけた。四肢の動きは封じられた。 彼らは子供の残酷な無邪気さでこんなことをしているのだ。まるで紙を細かく切り刻むように、蝉を花火で焼くように。 残った1人は手に石を持ち、ホーリーナイトに何度も何度も殴りつけた。血が飛び、肉が砕ける音がして、痛みが押し寄せてきた。血飛沫が飛び散り、意識が霞んでいく。 男の子たちは叩くほど血が出てくるホーリーナイトを見て笑い、痛みに暴れる苦悶の顔を見て楽しんでいるように見えた。ホーリーナイトがその痛みに悲鳴で反応する度に殴る強さは増していった。 数10回叩かれてもう痛覚も意識も消えてきた。痛みが気になって走馬灯も見えない。ホーリーナイトはこの状況に追いこんだ人間を恨んだ。憎んだ。 でもそんな塵に等しい思いは風に流れて消えてしまう。そんな、抗えない自分の無力さも恨んだ。 「……あれ? もう動かなくなったぞ?」 子供たちはホーリーナイトが動かなくなったのに気づいた。辺りには鉄の臭いが漂っていた。 「あはは〜。早すぎ〜」 「おいおいもう終わりかよ」 「なんかつまんねえなぁ。行こうぜ」 「行こう行こう〜。次は何する?」 「あー……」 そんな他愛も無い会話。その真下では死に瀕した者が1匹。地面を揺らす複数の足音と乾いた会話は、少しずつ離れていった。 静かになった。もう体は動かなかった。冷たい血溜りと漂う鉄の臭い。全身がぼろぼろになり、肉体の限界は絶え間ない激痛が示していた。片耳の感覚がない。千切れたのだろう。空はこんなにも青と赤が混じって綺麗なのに、その下では残酷な光景が広がる。通り過ぎる者はいなかった。 もうすぐ叶えられるはずだった願いは消える。俺の人生に光を与えてくれた橘に1つも恩返しできないまま死んでしまうのか。そう思うと悲しくなって、寂しくなった。この世に大きな未練を残したなと思い、虚しくなった。 橘が残した1つの願い事。居場所を与えて、友達の温かさを教えて、一生では感謝しきれないほどの恩恵をもらったのに……なぜ俺は何も出来ずに死んでしまうのだろうか。自分の無力さにいまさら打ち震えて、この状況に追い込んだ人間を恨んだ。 (こんな終わり方悔しすぎるだろうが……!) 命のカケラが小さな火種となり、それは一気に大きく広がっていった。 限界は自分が決めるものじゃない。まだ体は動くはずだ。 ほら、まだ体はこんなに温かい。心臓はこんなに元気だ。 まだ動くこの体。ギリギリまで使ってやる! 全身の血よ、鼓動よ、筋肉よ、細胞よ! 俺に……力を! 願わくば大地を踏みしめるための筋肉を! この満身創痍の体を支えるための血を! 思いを果たすための鼓動を! この俺の生きる意味を達成するための細胞を! その後指一本たりとも動かせなくてもいい! 俺に魂を進めるための勇気をよこせ! 心を遂げるために、死力を総動員しろ! 燃え盛れ! 俺の体の中に眠る……全てよ! 肉体に直結する4本の足一つ一つに力を込める。ギシ、ギシと筋肉が悲鳴をあげる。かさぶたが少しずつはがれていく。さらに全身に激痛が走る。頭が重い。 でも、肉体のすべてを使い果たすまで終わってない。俺は生きている! 走る。無我夢中で血の跡を残しながら全力で走る。走ると既に痛覚も消え失せていた。冷えた大地の上に燃え盛る魂が、鼓動が駆け抜けていく。地面を爪で叩く音が迅速になる。 駆けろ、その魂を。 繋げ、大地を。 超えろ、限界を。 放て、風と共に。 果たせ、約束を。 走る。音がする。風を切る。血が少ない。強く唸る。まだ走れる。負けない。もう長くない。だから、まだだ。揺るがない意思。奥底、力をくれる。掴もう。その先の光を。天馬のごとく。神速の域へ。求めるものは1つ。 弾丸のごとく、ただ目の前に見える1点の光だけを目指して―― 思考回路を完全に遮断して幾つもの血の跡を残し、燃え盛る魂の力で走った。一度たりとも止まることなく走った。ホーリーナイトはようやく1軒の家に着いた。 (ここか橘の彼氏の家は……) 一度その場で立ち止まり、家を見る。 何の変哲もない普通の家。アパートではなかった。黒の車が1台。 ただ、1つ言えることは周りに立ち並ぶ家よりなぜか綺麗に見えたことだった。 血液の流れる音が、心臓の鼓動が、震える足がじれったかった。 「よう、やく……約束、を……」 その小さな体に詰め込んだ想いを運ぶ。その約束がようやっと果たされるときがきた。 そう心で考えて、止めてあった足を動かそうとした。 しかしその刹那、目の前が激しい砂嵐で覆われた。体が信じられないくらいに重い。全身に力が入らない。吐き気が止まらない。頭痛が本当に殴られているように痛い。血の気がしない。冷たい。こんなに走ったのに体から熱を感じない。 ――ロウで固められたイカロスの翼は、高く飛んで太陽に近づけば溶けてなくなってしまう―― 歩く。その平素の動きができなかった。吐き気が止まらず、その場で出してしまった。赤い血が目前にあふれ出した。 ショックでバランスを失ったホーリーナイトはその場で倒れた。 目の前が、見えない。小さな小さな点のような砂が無限に視界にかかるように。何も、なに1つ見えない。 力が、入らない。足に意識を集中させても痛みがそれを妨げる。 (ここで……終わるのか……?) そんな訳にはいかない。ここで終わるにはあまりに哀しすぎる。後悔する。 (煮えたぎる魂。お前はまだ死んでない……!) 力を、骨の髄まで魂を動かせ。 うなるような篭った声を起点にして少しずつ地面を擦るように進む。 1歩、また1歩。命の限り。命の或る限り。 家の扉までの距離がこんなに遠いとは思わなかった。こんなに近いのに遠い。無我夢中で血の跡を伸ばしながら進んでいく。 1つ、また1つ。気づいたときには暖かい何かに抱かれていた。 その感触に気づいたホーリーナイトは体の力が一瞬でゼロとなったと感じた。 全てが薄れていく。 それを橘の彼氏だといいなと、願った。 最期、抱えられたホーリーナイトは体を翻して抱えてくれた何かを見た。 優しそうな男の人が必死に呼びかけているのが。 (俺、橘に1億分の1でも返せたのかなぁ……) 男の人の悲痛な、ホーリーナイトを呼ぶ声が聞こえた。 何かを思い出す。俺はいつも死に際で地面に溶けるような感覚だったはず。夢でも見ているような景色が見える。男が死んでる。果たせなかった思いを悔やみながら死んでいる。それをただただ悲しいと思う。 ……でも、俺は違う。天空に導かれるように意識が薄れてゆく。 そして静かに、瞼を閉じた。 願いは、叶った―― 第5話 part1 END |