第5話 part2 聖なる騎士



「今日は休日だし、体も休めようかな」
ある村のある家。
今年で19才。名前は東條春也(とうじょうはるや)。現在、獣医大の大学生。遠く離れた場所に彼女有り。その子の名前を橘 亜紀という。
今、いるのは大きめのマイホーム。いや、父のものだけど。


大学の始めのうちは単位を多くとって、後は自主休学という名のサボりを満喫して――
なんてダメ人間上等な心構えは抱かなかった。いや、抱けなかった。
亜紀が絵描きとして名を轟かすために上京している。……ただ多くの人に絵を見てほしいだけなのかもしれないが。
とにかく亜紀のことを思うと、自分がかなり情けなく思える。俺は、彼女のことを少なからず、誇りに思っているのだろう。だから夢を持ってこの大学にいるし、これからも妥協はしていかないと思う。
ほぼ毎日大学で講義を受けていた。実習も人1倍動いた。それなのに今日が休みの理由は大学自体が休講だったからだった。
ちなみに、彼が世界的に有名な執刀医になるというのはまた別の物語で語られるべきだろう。

「さて、今日くらいはぐっすりと眠っておこうかな。たまにはこんな日も……」
部屋を見回す。一人暮らしをしたいと主張したが金銭面で親への負担が大きいことがあるので、結局この家を抜け出せなかった。亜紀についていこうとしたが、
『春也は自分のしたいことをしなよ。私は、私のしたいことをするだけだから。……ごめんね』 と言われた。
別についていかなかったことに後悔はしていない。でも、その言葉を聞かされたとき、静かに悲しく涙を流したこともあった。
そして、互いのことを忘れないように手紙を交換することにした。いまでも頻繁に手紙を書き、送っている。おかげで今年も亜紀のことを忘れずに済みそうだった。


まさか最後の手紙がこのようなカタチになってしまうなんて――



冬は寒く、凍える。虫の羽音や葉が風に揺られて擦れる音も無く静寂な空気のみがこの空間にあった。そしてその静穏な部屋の中で仮眠を取ろうとまぶたを閉じた。ソファーに体をすべて任せてもたれかかり、寒いのでその上に毛布を自分の体にかぶせて完全に眠る体勢にいた。
正午過ぎ。昼ごはんも食べ終わり、睡魔が我が身を襲う時間でもあった。

カリカリ。カリカリ。
まぶたを閉じても耳は塞がない。真っ暗な世界しか見えていない俺に微かだが音が聞こえた。
今日は親が旅行に行くとか言って、俺以外誰もいないので静寂だ。起きたときには、もう車が2台あるはずの車が1台になっていた。
その音は少し耳障りだったが、その程度で睡眠を妨げられることはない。そう意識させて、眠りにつくことにした。
まぶたが落ちていく。



――起きて!



一瞬、亜紀の声がした。……ような気がした。頭から直接割り込むような声に、はっきりと目を覚ましてしまう。人にそのことを話したら苦笑されそうだが、確かに聞こえた。
耳の端では、まだカリカリと音が聞こえていた。ソファーに別れを告げ、体を起こす。自然とその音の正体を確かめたくなった。
尖ったものでなにかを擦ったような音に注意しながら足を運ぶ。すぐにその場所の元はわかった。そこは家の正面玄関のドアだった。ハンガーからジャケットを取り外す。
不思議に思いながらもドアをゆっくり開けた。そうすると音は消えて、足元から猫の声が聞こえた。いきなり入る黄色い日差しに少し目を細めながら下を見た。
「ニャっ」
白い猫だった。冬の季節で動物が出ることはめったに無いはず。首輪が無いところを見ると野良猫だということは確かだった。
「なんだ猫か。野良ならもう少し汚れていてもいいはずなのだが……」
「ナ〜」
野良猫だから異常に痩せていたり、非常に太っていたりというのは考えられる範囲であった。しかし、野良猫というのはどうしても体が汚れていくはずだ。それも白色の猫。汚れは目立つはずだった。でも純白といってもいいほどの白い姿に包まれていた。
「うれうれ、こっち来るか?」
東條はひざを折って白猫と同じ目線で話しかける。なるべく優しく接するつもりでいた。
「ニャ」
しかし、即行で馬鹿にされたようにそっぽを向かれ、右に歩いていった。
「おいおい、そんなに冷たく接することは無いだろうに」
白猫に注意が向かっていたせいで見えなかった庭の景色が視界に飛び込んだ。一本の線になった血の跡。それを辿っていくと、うつぶせに倒れた黒い猫の存在に行き着いた。その情景は明らかに異常なことを示していた。
「………っ!」
白猫のことなど一切気に触れずに、真っ先に黒猫に駆け寄り、頭だけ少し持ち上げて、呼びかけた。冷たい血のぬめりが気持ち悪い。
「おいお前大丈夫か! しっかりしろ!」
体を少し揺さぶってみても反応はなかった。東條は全身に冷や汗を感じた。まずい。このままではまずい。
とりあえずゆっくりと、黒猫の体を翻した。声は出さなくても目で返事をしてくれるかもしれない。
「……おい。生き…てる……か?」
東條の祈りが届いたのか、黒猫は少し、ほんの少しだけ目を開けた。
「……生きろよ!俺が助けてやるからな!」
東條は獣医大に通っていて、ある程度の知識はあり、応急処置を施せる。ゆっくりと地面に黒猫を置こうとした。そのとき、腕にかかる負担が大きくなった。既にまぶたは閉じて、黒猫の全身の脱力による更なる重さがあった。
最悪の状況を想定した東條は冷静に落ち着こうとしたが、それは心のどこかで拒んでしまい、到底出来なかった。
「……し、心臓は……?」
とりあえず黒猫を地面に置いて、緊迫した空気が漂う中で黒猫の首に手を当てた。鼓動がない。まさかと思い、胸やおなかの様子を見た。上下に動いていたら呼吸しているはず。
……動く様子もなかった。獣医大に通って医学を学んでもなにも出来なかった自分にどうしようもないやるせなさを感じた。
一瞬、落ち葉が驚いたように暴れた。風が、あまり脂っ気のないミディアムショートの黒髪を揺らしていた。
「悪いな……何も出来なくて。せめて……」
こんなダメな自分でも1つ出来ることがあるなら。

せめて、弔うだけでも――



東條は真っ先に家の裏の倉庫に向かい、中から大きめのシャベルを出す。そして、駐車場にある黒い軽自動車にそれを積み込みこんだ。
部屋の台所から包丁を取り出して、タオルで包んだ。
そして、黒猫の下に立った。
黒い猫。赤い首輪。所々血で染まっていたが、この猫には見覚えがあった。
橘がくれた手紙。そこの入っていた1枚の鉛筆画。
真実味のない真実が現状を醸し出す。


赤みがかったの太陽が東條の体とホーリーナイトを優しく包み初めようとしている。
「行こうか。Holy night」
どういう経緯か分からない。でも、心が許す限り、こいつが亜紀の下にいたホーリーナイトだと信じたくなった。
ここで橘に連絡を取っていたら、どうなっていただろうか。いや、考えたくもない。
冬の空は日が早く落ちる。躊躇することなくホーリーナイトを車に担いで、エンジンを回す。東條は、ある場所に向かっていた。


その場所に行くのには、さして時間はかからなかった。腕にホーリーナイトを抱える。手には包丁とスコップ。
火照ったエンジンを止めたのは小高い丘だった。元々、あの田舎が平地より高めだから20分程度で着いた。人もいなく、枯れた草原が広がっている。1歩1歩進むたびに固くなった枯れ草が音を鳴らす。その丘の頂上のある大きな一本の桜の樹に足を運んだ。既に葉は落ちて、樹が裸になっていたが、その曲がりくねった姿がその威厳と年月を示していた。
「ここは、亜紀との思い出の場所。一瞬の出来事でも鮮明に覚えている。ここで出会い、ここで別れた。始まりと終わりの場所っていうのかな。まぁ、彼女から見たら『終わりじゃない。始まりだよ』とか言われそうだけどね。……あぁ、そういえばもう1つここには思い出があったな。橘と出会う前に――」
自分で言って、苦笑いした。自分語りなんてあまり好みじゃないのになぁと。
「そういえば子供のころ、お姉さんに会ったよ。その人がどこに行ったのかは知らないけれど……」
地面にすべての荷物を置いて、シャベルだけを手に持つ。
そしてシャベルで樹の根元を掘っていく。木の根に当たらないように注意しながら。
空いた地面は大体、猫より一、二回りの大きさ。そこにホーリーナイトを置く。土をかぶせる。そこだけ草が消え、濃い茶色の地面が顔を出していた。
「……ごめんな。墓くらいしか作れなくて」
日がもう殆ど暮れていた。赤と青のコントラストが空を創り出す。風が強く吹いて、冬の独特な空気が舞った。夕日の残光と青空が縫いあうように絡み合っていた。
そして、地面に置いていたナイフを拾い上げ、樹の幹に名前を刻んだ。


――Holy knight

それが、全てを繋げた。


ホーリーナイトを埋めた墓を見る。不思議なことに、そこが弱々しく淡い青で染まっていた。目を力いっぱい閉じたり、擦ってみても目に映る景色は変わらなかった。
しばらくすると、その地面から土からすり抜けるように球状のなにかが浮かんできた。手のひらで包み込むことができそうなほど小さな、小さな、淡い青い光の玉。玉といっても、”ただ球体の形をしているもの”であり、今にも消えそうなほど不安定な存在感を放つ。ゆらゆらと木の葉が地面に落ちていくように。1つ違うのは、重力に逆らっていることだ。
それは、まるでホーリーナイトが運んできたようだった。
ふわふわと浮かんでくると東條の目の高さでピタリと止まった。目に留めて、見惚れるよう視線で追いかけていた東條は、そのことに目を見張った。
瞬間、音もなくそれは弾けた。それから漏れた眩しい青の光に目をつぶる。光は、東條に染み込むように通り過ぎていった。

恐る恐る目を開ける。細い視野をだんだん広げていくと、そこにはもう玉は無く、代わって1つの封筒が浮かんでいた。
すぐさま、それを手に取った。
「もしかしてこれは……」
見覚えのある水色で長方形の封筒。もしかしたらあいつのものではないのかと思った。中身を切らないように慎重に封を開く。
そして、予想したとおりその中には待ち構えていたように、折りたたまれた手書きの手紙が入っていた。
地面に落ちている木の葉が暴れている。この状況で葉と葉が絶え間なく会話しているようだった。
心臓の鼓動がだんだんと大きくなる。耳の奥で心拍が太鼓の音のように聞こえる。
風が東條の思いをはせて、そのまま流れていった。


嬉しい。でも、何かが怖い。東條はに葛藤しながら恐る恐る手紙を開く。あたりを荒らしていた一陣の風はすぐに消えた。





久しぶり、そっち元気かな?橘です。
この季節になると、春也と出会った時のことを空を見上げて、思い出します。

……相変わらず微妙な敬語文調は直らないねー

話を変えて、私は黒猫を飼っているのを知ってるよね?名前はHoly nightっていうんだけど、今回だけこの子に手紙を届けてもらいました。
私は酷いことをしたと重々分かっています。でも、それしかあなたにこのことを伝える方法が無かったの。

……私はこの世を去りました。信じられないと思うけど、私は空の上でこの手紙を 書いてます。
いきなりでごめんね。でも、私はこの生き方に後悔はしていません。でも、100人が私の生き 様を非難しても、私は私の人生を真っ当したと思っています。確かに不十分だけどね。

あの噴水の公園。綺麗だったよね。
絵が上手と褒めてくれたこと、嬉しかったです。
バイトまでして買ってくれた高価な靴。いつも大事に履いているよ。
私が家族に上京すると言った。強く反対されて、落ち込んだとき私をいつも支えてくれました。ありがとう。
みんな、みんな私を構成している大切な思い出です。

私はもうこの世にいないけど、忘れないでほしい。この一瞬の時間を覚えていてほしいの。
晴樹がそう思ってくれたのなら、今日が私の人生の中で一番幸福な日です。
だから、春也は人生に妥協しないでね。


最期に、

さようなら。私達、次もまた会えたらいいね。




なんなんだこの手紙は――
「これじゃまるで別れの手紙みたいじゃないか……」
これは間違いなく亜紀からの手紙だ。そして、亜紀はこんなタチの悪いジョークをつくことはない。長い付き合いだ。よく分かる。というか、彼女がそんな冗談を言ったら怒る。
急に顔色が悪くなっていく。背筋に悪寒が走る。
なぜホーリーナイトがここで死んでいる?
なぜ橘がホーリーナイトが手紙を持っていることを知っている?
その亜紀が自分自身の死を語っている?
疑問と疑問が繋がって、東條はその疑問を解くために1つの答えを打ち出した。



多分、結果は既にそこに在るだけで、何も変わらない。それでも、急いで車に戻る。
驚いたことに、既に日は完全に落ちてしまっていた。ライトを点ける。バックミラー越しにあの丘とホーリーナイトを残してキーを回し、車は騒音を立てる。
見慣れた田舎道。田舎の車道は道が広く。2車線以上の広さがある。真っ直ぐに伸びる平坦な道。
落ち着くことも出来ずに、指定された速度を大幅にオーバーしていることも気に留めれないほどだった。
耳の奥で大きな騒音が響いていた。
東條は自宅に戻り、今までの亜紀からの手紙を取り出す。それは自分の部屋、机の上。引き出しの中に大事そうに保管されている。
その手紙の中の1つに亜紀の引越し先への地図が入ったものがあった。急いでそれを抜き取り、車を走らせる。
こんなにも時間がもどかしいと思うことは初めてだった。


3時間。東條は案外長い道のりを走った。人生の殆どを山の手で過ごした東條にとっては、下町はテレビでしか見たことのない別世界のようだった。
(ホーリーナイトはここから来たのか……この、長い道のりを……)
自分の町では日が落ちたら何も見えないほど暗くなるのに、東京は溢れんばかりの輝きで満ちていた。
適当な場所に車を留めて降りる。都会は色々なものが密集しているせいで車が必要ない。だから適当なところに留めるしかないのは道理だろう。
身が震えた。都会でも田舎でも冬の寒さは万国共通らしい。首に巻いたマフラーと黒のジャケットに少しばかり感謝した。

ある場所のあるマンションの階段を上る。少しずつ胸が締め付けられるような思いに駆られた。
(ドクン)
指がかじかむ。しばしば絶える騒音が風を作り出し、不規則に髪が乱れた。
(……ドクン)
手すりが氷のように冷たい。徐々に歩を進める足が重くなっていく。
(……ドクン!)
1つのドアの前に立つ。言うまでもなく橘のマンションの前だ。
ゆっくり手を伸ばし、ドアノブに手をかけて手首をひねる。扉に鍵はかかっていない。それがどういう暗示をしているのかを考えることもなく戸を引いた。
鍵を掛けていないのに、室内は真っ暗だったので明かりを点ける。見ると、ベッドの上で背を向けて横たわっている亜紀がいた。
「……なんだ。元気にやっているじゃないか。無用心だな」
杞憂だ。そう確信した。人って案外丈夫に出来ているし。部屋を見回ってみる。簡素な部屋で、必要以上のものが何も無いのに驚いた。そして、彼女が描いた絵が無造作に置いてあったのでそれを手に取った。その大半の物が黒猫、つまりホーリーナイトを模したもので、黒ずくめの絵が多かった。
最後に亜紀の寝顔だけ見ていこうと考え、そっと覗いた。
「……顔色が!」
思わず手のひらで口を覆う。肌は青白く、まるで死人のようだった。呼吸もしてない。脈もない。生気がなかった。自分の愚かさを悔やむほどにネガティブになっていく。

そこにあったのは、亜紀の、死体。

「……う、嘘だろ? なんで何も反応がないんだよ。なんで平然とした顔で息をしてないんだよ……笑ってくれよ、またあの噴水広場に行こう…… いつか、2人で歩こうっていったじゃないか……」

噛み締める様な唸る声で一つ一つ言葉を紡いでも、涙を塞き止めることは到底できない。
頭の中が白くなる。背筋に凍ったような冷たさを感じる。


「うあああああああああぁぁああああああああああああっっ!!」


12月25日。世界が暖かさと幸せに包まれる日に、彼女は死んでいた。







橘 亜紀。俺の彼女が死んでから2週間程度が過ぎた。
亜紀の葬儀や、墓の注文等でごたごたしていた日々も過ぎ去り、寒い冬が本格的に牙をむく時にもなった。
亜紀の墓の隣にホーリーナイトの墓を移してやった。2人で眠っていたら幸せだろうから。

俺の方といえば、結構泣く時間が多かった。他人に心配されるのも厄介なので人前では強がっていたのだが、自室に戻ると涙が枯れるまで泣いていた。
泣いた後は心が晴れ晴れとしているのだが、亜紀の死という現実に戻されるとまた涙ぐんでしまった。

そんな悲しみに明け暮れているとき、少し外を歩きたくなったという理由で家を出て散歩に行った。
歩いて10分も経った頃、目の前に白い猫がいた。どうやらホーリーナイトが倒れているのを知らせてくれた白猫らしい。
「キミ、うちに来るかい?」
後ろにホーリーナイトを重ねていたのかもしれない。だから、せめてもの報いにとでも思ったのだろうか。
俺の言葉を理解したかは分からない。それでも白猫は俺のように寄ってきて、一回鳴いた。
「名前は『santo cavaliere』でいいか?」
「ニャ〜」
どうやらあまりお気に召さないようだった。頭の片隅にホーリーナイトを浮かべる。
「よろしくな。セントキャバリエーレ。略してセントでいいか?」
「ニャ〜ァ〜」
そして1人と1匹で歩いた。白猫の温もりが寒さを紛らわせてくれるようだった。
生きているモノを見つけた。だからそいつの輪郭を撫でてやった。それだけのことだった。


自分より頑張って生きている白猫を見ると少し勇気が沸いてくる。泣いているだけでは駄目だと。地面に寝そべっているだけでは何も変わりはしないのだと。
第一、亜紀はそんなことを望んでいない。彼女は俺に妥協するなといった。だから俺はこの道を真っ直ぐに進もう。揺ぎ無い精神で、俺は獣医師として命を救い続けよう。
最期の手紙を読み返す。もう涙は殆ど枯れてしまい、手紙に落ちた1滴が最期になる。
だから、亜紀は休んでいてくれ。俺は空へ消えてしまった亜紀を見上げるから。


それが愛する亜紀への餞(はなむけ)だ――




輪廻に終止符を END?




公開日:2007,11,24

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