「帰る」 「ぴょこぴょこ」 「……み、ぴょこぴょこ」 「あわせてぴょこぴょこ」 「むぴょこぴょこ」 「すげえ! 事前に打ち合わせしたみてーだなこれ!」 「ああもう本気で帰るっ」 「おおっと、俺とお前の仲だ。そんなこと言うなよ。嫌々ながらもけっこうノリがいいしな」 「あなたの顔を見た瞬間、とても帰りたくなりました」 「そんな俺の才能すごい」 「せめて疑問形にしてください」 さっき佐緒里と歩いてきた道筋を通らずに上級生が集まっていく校舎へと移動する。廊下は寝静まった夜の校舎とはまた違う人気のなさがあるけど、壁を一つ挟んだガラスの向こうには生徒らが元気に騒いでいる姿が見える。不思議な違和感。右手の教室の連なりからは人々の喧騒の音が漏れてきているのに、廊下からは俺と梶野さんが足の裏でリノリウムをたたく音しかしない。それがよりいっそうこことの差異を際立たせる。 さっき起こったことを遡ると―― 職員室の敷居を跨ぎ、すぐに近くの教諭に声をかけて、自分のことを紹介して対応を求めた。話を理解したその教諭はすぐに立ち上がって奥へ歩いていき、物陰に消えていった。そのまま壁にもたれて立ち尽くしてしばらく待っていると、教諭より上の立場の人と思われる人と、男が横についてやってきた。自身はこの高校の校長であると名乗って、友好的な態度で接してくる。校長は校長室にいるものじゃないのかと思っていたのだが、多分俺が来るのを待っていたんだろう。ただの転校生のために時間を割くなんて対応はありえないんだけど、俺ならありうることなのかもしれない。別にそんなことをする必要はまったくないのだけど、まだ平身低頭な接し方をしてこないだけましなんだろう。 そしてその校長と共にやってきた一人の男が―― 梶野さんだった。 一瞬わが目を疑った。でも目を擦ったり凝らしたりしてみても、黒いスーツを着こなして目立つ配色のネクタイを首に巻いているので少し場違いな印象があるけれど、やっぱり梶野さんだった。ちなみに下の名前は未だに知らない。 そして時間は今に戻る。 「上の奴らに失礼のないようにとか、粗相のないようにってやたらしつこく植われたんだが、別にいいよな」 奴って言っていいんだろうか。まあいいのか。 「いいですよ。俺、そういうこと嫌いだしもうそういう態度取る必要ないですから」 「ま、それもそうか」 「俺のこと何か聞いたんですよね?」 「そりゃあな。プロフィール的なアレを見れば嫌でもわかるだろ」 「……一応伏せて生活していきたいので、佐緒里や月奈には絶対言わないでくださいね」 「わーってる。俺だってそんなこと言って気分わるくしたかねェからな」 「案外、順応性高いですね」 「は? そりゃお前だろうが」 意外な反論に肩が跳ねるように動く。 「どういうことですか?」 「俺たちと前から知り合いだったみたいに接して、うまく溶け込んでるからだ。不自然じゃねえのが逆に不自然に思えるほどな」 「……ジェラシー?」 「うっせー悪いか。俺のハーレム奪いやがってこの野郎っ」 「この前それでもいいって言ったじゃないですかっ」 「それとこれとは話が別だー! つか、それにしても馴染みすぎなんだよお前っ!」 いやいや、別じゃないだろ一緒だろ。 「どうせ男も若いほうがいいんだろ女と同じようにっ」 「いやいや、ダンディなオジサン趣味な人もいますよ?」 でも、この人は女子高生を誘惑してナニをするつもりなんだろうか。 「ならいいか」 「うわ、機転よすぎっ」 「男たるもの、くよくよしてはダメだからな」 本当に多様性あるなその言葉。 「2回もジェラシー感じてたくせに」 「うるせーって、あ、お前のせいで教室通り過ぎちまっただろうが」 梶野さんは踵を返して荒い歩調になる。そのあとを追いかけた。どうやら適当な会話を交えてるうちに、目的の教室をスルーしてしまったらしい。教室の扉の前に立つ。戸口の上には2―Dと書かれた表札。 「じゃあ、ちょっと待ってろよ。後で呼ぶからな。」 そう言って、一瞬で教師の顔になった梶野さんは教室に入っていった。 ほろ苦い思い出を浮かべる。夢だったならどれだけ楽だったんだろうというエピソードを。片親にとって俺はいらない存在で、空気のように扱われた。それによって歪んでしまったこの心。誰が悪いというわけではない今となっては過去になった事実。これから俺は自分自身の過去を切り離して、別の自分で振る舞いをしなければならない。長い間放置していた体の中に溜まった泥を吐き出さなければいけない。 要は、他人への心証を悪くしないように、ということだ。怖がられて除け者扱いされたら転校してきた意味がない。 「でも面倒なんだよ、自己紹介」 「隆一」 「逃げるか」 「おい」 「よし帰ろう」 振り向いたその瞬間右の肩を掴まれた。指が食い込む具合でどれだけ力が入っていたのかが嫌でもわかる。痛い。 「俺に聞かせるつもりで言ってるだろ」 「あ、バレましたか」 「いいからさっさと入れ」 返事の代わりにおとなしく教室の敷居をまたいでそれを答えにした。 教壇の後ろには梶野さんが立ったので、その隣に並ぶ。知っている顔はいないだろうなと思いつつ、素早く一瞥する。なぜか心のどこかがひっかかったのでもう一度、こんどはゆっくり見まわしてみる。 よし、知っている人は、 「あ」 いた。 声を発した方向を凝視する。向こう側も同じようにしていた。男だった。気質が軽そうな男。ライトブラウンの髪と爽やかっぽい表情が余計のその印象を際立たせている。だが彼は眉毛を短く整えているので目つきが悪く見えた。そして何を考えた結果なのか、後ろ髪で三つ編みを小さく結びあげている。頭部を動かすたびにその三つ編みが右へ左へ振られるんだろう。しかも微妙に似合っている。それが腹立つ。 彼だ。阿形夕がいた。 先に我を取り戻したのは向こうの方だった。茫然とした面持ちをしていた俺に対して、こっちに大きく手を振ってくる夕。返事は心の中に置きっぱなしにして、無視。ほかに知り合いはいないだろうなと思索しながら見回す。するともう一人、手を子犬のしっぽのようにパタパタと降る人がいた。今度は女の子だった。彼女は目立ちたくないけど俺だけに気付いてほしいといった様子で、小さく手を振っていた。口元はえへへ、と台詞を付けられそうな形で、ほころぶ笑顔を見せながら、どこか照れくさそうにしていた。 彼女は、小美濃佐緒里だった。 もはや驚きより焦りの感情が先行した。佐緒里はまだいい。学校にいる昔からの知り合いとして夕がいる。それが問題だった。でも夕だけだったら、そいつの口封じをするだけでいい。どうにかなるかもしれない。物分かりがよければなお都合がいい。 縁を切った過去。それでまとわりつく黒い影を少しは捨てられるんだろうか。あの緑苑台の屋敷から。父親から。家族から。 ☪ฺ 自己紹介はとても簡素なものにしておいた。自分からボロをこぼしてしまわないように。面白みや意外性の一切を省いた感じだ。名前を述べ、梶野さんが黒板に桜田隆一と書き、適当な自己紹介を十数秒で終えて席に着く。窓側後ろから二つ目の机。うしろは―― 「よっ、隆一」 夕だった。 「なんでお前なんだよ……」 「なんだよーわるいのかよー。クラスまで同じだし、運命共同体ってことで仲良くしようぜ!」 「あーはいはい」 気が向いたらな。 ちなみに佐緒里は遠く離れて廊下側から二列目だった。ちょっと遠い。 「てめェらうるさい。まだホームルームは終わってないぞ」 梶野さんが睨みをきかせてくる。反射的に双方口を閉ざして、そのまま前を向いた。 「あー、次は始業式だが始まるまで大分時間が空いてる。だから適当に待っていてくれ。始まるのは九時半だ。十分前には自分たちで体育館に入って整列しておくこと。あと転校生は適当に質問攻めにしておくこと」 え、なにそれ。 反論する余裕もなく梶野さんがクラスの長に号令をかけるように促し、礼が終わって教室を出て行った。会話の音が波紋のように広がり、教室全体が騒がしくなっていく。 質問攻めにしろと梶野さんに言われたものの、クラスの男たちはそれぞれの友達の輪中で話を交わしている。多分、俺がどういう人かを遠目で図っているんだろう。もしかしたら俺の存在など端にもかけずに、各々の話題で盛り上がっているのかもしれない。なんにせよ、みんながみんな同じことをしているもんだから俺に話しかけてくる奴は夕以外いないみたいだ。でもそれは男だけでの話。 「りゅーいちーっ」 周囲の人たちが俺のことを近寄りがたく認識している中、佐緒里だけはこっちに歩き寄ってきた。もちろん周りの人たちは鳩が豆鉄砲食らったような反応をした。 こういうとき、佐緒里と先に出会っててよかったと思う。 「同じクラスだね。よろしく〜」 「まさかホントに同じになるとは思わなかった」 「わたしもだよ。幸先いいよね。すごい偶然、びっくり」 そうだな、と気分のいい返事を返すと横からの視線、というか周囲の雰囲気に攻撃的なモノが含まれているのが伝わってきた。すぐさま顔を上げて、周囲を見る。みんな俺を見ている。なんだこれは。鋭い、研いだ後の刃物のような鋭利な視線がいくつも向けられている。断片的な言葉が聞こえる。すぐに俺はそれに耳をすませるのをやめた。 「おい隆一、おまえ小美野とも知り合いなのか?」 「まあな」 「も、ってどういうこと?」 なんとか佐緒里と月奈と同居していることだけは隠さないとまずいなと、そのことを念頭に置いて、話の行方を見守る。 「いやこいつ月奈とも知り合いなんだよ」 「うん、というか月奈ちゃんと隆一は知り合いって関係じゃ――」 「はい佐緒里ストップー」 「もご?」 佐緒里の口に手を当てて発言を遮る。その右の耳に小さな声で呟いた。 (できるかぎ) 「きゃうっ!」 一瞬で俺から半歩分だけ距離をおいて、右の耳を塞ぐ佐緒里。 「どうした?」 「み、耳は弱いから……すごいむずむずしちゃう……」 「なんだそれ」 「で、でもちょっとくらいなら我慢するっ」 「わ、わかった」 「なになに内緒話? 俺にも聞かせてよ」 「絶対嫌だ」 隠し事を目の前ですると怪しまれるのは確かだけど、理解してもらえれば確実に口止めできるということをここ数日で学んだ。まあ佐緒里だけだったら、加宮に押し切られて秘密を漏らしてしまうだろうけど、俺が止めるよう隣で言っておけば、そこから秘密が露見することはないだろう。 再び佐緒里の右耳に口を近づける。子犬のようにぷるぷる震えていた。 「〜〜〜〜っ!」 (できるかぎり俺が佐緒里の家で住んでいることは話さない方がいいと思う) 右耳から離れると、佐緒里から妙に艶めかしい呼吸の音が聞こえてきた。たぶん我慢していたせいだろう。むずむずするって言ってたし。少し色気を感じた気がしたけれど、心のうちにとどめて言わないでおいた。 「ど、どうしてなの?」 「世間的にちょっとよろしくないだろ」 まあ、夕がこの会話から内容を推測できることはあるまい。 「そう? んーと、別にわたしはかまわないんだけど、隆一が言うならそうするよ」 ああ、月奈より数段物分かりが良くて助かる。 「で、何の話なのさ」 「わわっ」 「そーそー。さおりんが隠し事なんて似合わないよー?」 佐緒里の背中におぶさるように軽く体重をかけて、佐緒里の左肩から端正な顔立ちをした女の子が元気そうに顔を出す。 「あ、美湖ちゃんどうしたの?」 美湖と呼ばれた少女は佐緒里の背中にもたれかかるのをやめて、すぐさままくし立てるように言った。 「どうしたの? ってなんですかそれはーっ。こっちはホームルーム終わったからさおりんと話そうとして後ろ向いたらいなくってなんじゃそりゃーって感じで、どこいったかきょろきょろしてたらなんか転校生のところ行ってるんだもん。わたしの方がびっくりしたよっ」 四肢の身振り手振りで絵にかいたような活発さを示す美湖と呼ばれた子。背は佐緒里より少し高いくらいだろうか。黒くて細い髪を二つ束ねて肩までに垂らして、大仰な挙動をするたびにそれらが右に左に本人の動きとは遅れて揺れた。 「うぅ、ごめんね。隆一がクラスで独りぼっちだから寂しいかなって思って――」 「話しかけに行ってた?」 「うん。あ、隆一、この子は加宮美湖ちゃん」 「加宮美湖ですよろしくー。佐緒里の友達やってますヨ」 弾むような歩調で佐緒里の隣に立ち、こちらを見て言う。すぐに眉の間が狭くなって、追従するように机の上に身を乗せた。 「……ん? もしかして桜田君、キミはもしかして朝にさおりんとるなちーの間で歩いて登校してきた男の子なのかな?」 「るなちー? 月奈のことか?」 頷く加宮。 「登校するときに三人で来たんだけど、なにかまずかったのか?」 「いやー、そっかそっか」 「隆一、お前なかなかチャレンジャーだね」 「は? なにが?」 加宮は片方の頬を吊り上げる嫌な笑みを、夕は目を丸くして驚愕の雰囲気を、佐緒里は苦笑いを浮かべていた。 加宮が言う。 「さて、明日が楽しみだなぁ。一応訊くけど、桜田君はなにも知らないって事でいいんだよね?」 「多分。この会話の意図がまったくわからないんだしな」 「そっかーそっかー」 「もったいぶらないで話して欲しいんだが」 「そだねー。別に隠さなくても明日には分かることだし、話してもいいかな?」 何かを企んでいる目をらんらんと輝かせながら続けて言う。 「交換条件なら教えて……と思ったけど、よしみを結ぶということで素直に教えてあげようかな」 「頼む」 「ありゃ、片意地張って頼み込まないと思ったのに。わかったお教えしましょう。いい、さおりん?」 「あ、うん。わたしだって隆一に伝えておきたいもん」 佐緒里も知ってるようだ。夕も知ってるのか? そんな疑問の一切を無視して加宮は語り始めた。 伝えられたのは大きな概要だけ。明日、何が起きて俺にどんな被害が及ぶかだけだった。 「明日、桜田君は複数の人に襲われるから気をつけてね」 背筋が凍るというのはこういうことだと、瞬間的に理解できた。 「佐緒里〜っ!」 迷子の子供がお母さんを見つけて泣きながら駆け寄る、というのが一番的を得ているのかもしれない。 ちょっと時間をさかのぼってみる。 始業式の長ったらしい校長の話や新しい担任の紹介によって作り出された異様なテンション(ちなみに担任は案の定梶野さんだった)を味わい、程よく手を抜いた大掃除を経て本日はお開き、下校となった。 佐緒里が、 「さっき別れたところから出たとこで月奈ちゃん待ってるからそこに行こっか」 と言い、二人揃って教室から出て、外にある屋根と地面の間にあるつっかえ棒のような柱にもたれかかっていた月奈に会いに行った。 そしたらこうなった。 月奈が佐緒里に抱きついた。 「あー、もうなんだ、これは。感動の再会シーンか何かなのか」 「うーん、結構外れてないっていうより、ほぼそんなかんじかなぁ?」 相変わらずの苦笑い。佐緒里は苦笑いの表情が一番多い気がする。 「月奈ちゃんはたぶん、わたしと別れてたのが寂しいんだってさ。だからいつもこんなかんじ」 毎回って……もはや異常だな。 「そんなに学校生活嫌なのか?」 俺の言葉を受けた月奈は顔をあげて目尻を何度か擦ったあと、睨むようにこっちを見た。 「別にそんなわけじゃない」 「じゃあいちいち泣きつくの止めとけよ。佐緒里困ってるぞ」 「……そうなの、佐緒里?」 「べ、別にそんなことないよ〜」 「ほーら大丈夫じゃないか隆一のバーカ」 ムカッ。頼み事する時だけ甘えるような口調になりやがって月奈のやつ。 「お前佐緒里がどんだけ心配してると――」 「はろーはろーお三方。やっぱり仲良くしてるねー」 横から飛び込むように声が割り込んできた。 「あ、美湖ちゃん」 「やほーさおりん」 「夕まで来てるし」 「なんか隆一って俺のこと除け者扱いにしてないか?」 「本能的に。遺伝子的に」 「生まれた時から!?」 「インプリンティング、刷り込みなんだよ」 「誰からされたんだよ」 「神様」 「お前の親って神様なの!?」 「そんなわけないだろバカじゃないのか小学生からやり直してこい」 「げ、その手のひら返しひどくね?」 ああ、夕ってツッコミ役にも回れるんだなぁ。 そんな可能性を見出した瞬間だった。 話を戻して。 「で、一緒に帰るのか」 「そうだね」 「いつもこんなかんじなのか?」 「まっさか」 前を歩く少女三人組。三種三様に後ろ髪が揺れる。いつの間にか俺と夕の男二人組と彼女らの間に見えない線が出来上がっていて、そっち側では弾むような話が交わされて会話の矛先はこっちに飛んできそうにない。 これはちょうどいいタイミングだな。覚悟を決めて自然と険しい顔つきとなる。 「夕、ちょっと頼みごとがあるんだ」 「転入初日早々に?」 「初日だからこそだ。早めに言わないと取り返しがつかない」 「へえ。なんなのさ。とりあえず話だけ」 聞こう、ということか。 「昔の俺がどんな環境にいて、どんな扱いを受けていたのか知ってる……よな?」 「まあ風のうわさ程度にはね」 「それを黙っといてほしいんだ。みんなには知ってもらいたくない」 夕は少し唸って 「――あれ? 結構真面目な話?」 「今更気づいたのかこの野郎」 こっちは結構真剣に話してるんだぞ。 「なるほどなるほどー。じゃあこっちからも条件を立てよう」 「げ、なんだよ」 「昔の俺にかかわる事も一切話さないでほしいね」 「…………」 その先にどんな意味が隠れているんだろうか。少なくとも軽い意味ではない気がする。昔の自分が恥ずかしいだけなのか、それはあまりに黒すぎて皆に知られたくない俺と似た事情なのかは知らない。 「いいだろ、隆一。お互い交換条件だし」 「ああ。……こっそりばらすなよ?」 「しないしないって。そんなことしたらいつか、そんなことしたら俺のことも言いふらされるかもしれないじゃん」 「それもそうだな」 よかった。夕が思ったより物分かりのいい奴で助かった。いや本当に。万が一のパターンで考えていただけだけど、夕がもし人の弱みを握ってそれを悪い方向へ利用しようと企む、そんな優しさのかけらもないヤツだったらどうしようかと思ったぞ。 「さ、く、ら、だ、くんっ!?」 一つ安心して安堵の息を吐く間もなく、前を歩いていたはずの3人のうち加宮がずずいと詰め寄る。 「さおりんアンドるなちーと同棲、いや同衾してるって本当!?」 「えっ、いや同衾はしてないけど――」 なな、なんで加宮が知ってるんだ! こっちは面倒になるからひた隠しにしようと思ってたのに! 「じゃあ同棲はしてるってことなんだっ!」 「え、あー、いやあ」 まさか――さっきの俺と夕との会話の時間にあの二人、俺たちが同じ屋根の下に住んでること全部話したのかっ! 他人に知られると面倒事や悪い方向への勘違いが起きてしまうかもしれないから、俺ができるかぎり事を隠していこうと思ってるのに、家主である佐緒里や月奈が隠そうとしないってどういうことだっ。無駄なのか。もしかして徒労だったのか。 「そこの二人、どうして隠そうとしない」 「ご、ごめんっ! わたしはちゃんと言わないでおいたんだけど……」 「月奈が言ったのか……」 「だって家族が増えたんだぞ? めでたいことじゃないか。なんで隠す必要がある」 「さいですかー……」 もう秘密にできないし、どうでもよくなってきた。こいつ、この前はちゃんと空気読んで発言したというのに、なんという手のひらの返しっぷりだっ! 後ろの方では夕と加宮が、 「ねえ加宮、どういうこと? 詳しい説明を頼むよ」 「桜田君がね、るなちーとさおりんの二人と同じ屋根の下でイチャラブしてるんだってさっ。きゃーっ!」 そんな根拠のない噂のような痴話言を広げて楽しんでいた。 「そこまでは言ってないしありえないから!」 「そこ、まで?」 はっ。しまった。誘導された。 「ちょーっとそこのファミレス行って詳しい話を聞かせてくれないかい、隆一」 「…………」 馬車に揺られてどこかに売られてゆく哀愁漂う牛の歌を反射的に思い出した。ドナドナドーナ。 その後、俺が小美野家に住まわせてもらうことになった経緯を洗いざらい吐かされたのは言うまでもない。っていうか吐かされる前に月奈が全て吐露していた気がする。 ああ、薄暮が蒼穹を侵略していく様子はきれいだと、帰る頃には思えていたらどんなに幸せだろう。俺にできたのはそんなことを思い描いて、この尋問のような状況から心だけは逃避させるように努めること。佐緒里がすべてを吐露していくのを無情に眺めることだけだった。 |